自我偈について
今の施主十三年の間、毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は_唯仏与仏。乃能究尽〔唯仏と仏と乃し能く究尽したまえり〕なるべし。
夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましいなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申すべからず。次下に分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して仏になりたる人々の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候え。其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。涅槃経四十巻の中に集まりて候し五十二類にも、自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか。されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の菩薩天人等雲の如くに集まりて候し、大集・大品の諸聖も、大日金剛頂経等の千二百余尊も、過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人々、心力よわくして三五の塵点を経しかども、今度釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして、爾前の経々を縁として得道なると見えたり。されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う。世界の人の父母の如し。今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続く人也。我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや。若し此れを捨て給わば仏還って我が身を捨て給うなるべし。これを以て思うに、田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし。此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきにうくるにあらずや。法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし。
『法蓮鈔』
夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましいなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申すべからず。次下に分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して仏になりたる人々の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候え。其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり。涅槃経四十巻の中に集まりて候し五十二類にも、自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか。されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の菩薩天人等雲の如くに集まりて候し、大集・大品の諸聖も、大日金剛頂経等の千二百余尊も、過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人々、心力よわくして三五の塵点を経しかども、今度釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして、爾前の経々を縁として得道なると見えたり。されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う。世界の人の父母の如し。今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続く人也。我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや。若し此れを捨て給わば仏還って我が身を捨て給うなるべし。これを以て思うに、田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし。此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきにうくるにあらずや。法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし。
『法蓮鈔』
方便品と寿量品について
此方便品と申は迹門の肝心也。此品には仏十如実相の法門を説て十界の衆生の成仏を明し給へば、舎利弗等は此を聞いて無明の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず。未来華光如来と成て、成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始は是也。
<中略>
次に寿量品と申は本門の肝心也。又此品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず。三世の諸仏の説法の儀式の大要也。教主釈尊寿量品の一念三千の法門を証得し給事は、三世の諸仏と内証等きが故也。但し此法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然也。我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に奉値事は乃往過去に此寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故也。難有法門也。
『太田左衛門尉御返事』
法華経は何れの品にも先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候也。されば常の御所作には、方便法の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給候へ。又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は見に影の随ひ、玉に宝の備はるが如し。寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉。薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には是の方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。
『月水御書(報大学三郎妻書)』
方便品より人記品に至るまでの八品は正には二乗作仏を明かし、傍には菩薩・凡夫の作仏を明かす。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽之五品は、上之八品を末代之凡夫之修行すべき様を説く也。又涌出品は寿量品の序也。分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代之凡夫の行ずべき様、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説く也。
<中略>
爾前は星の如く、法華経の迹門は月の如く、寿量品は日の如し。寿量品の時は迹門の月未だ及ばず。何に況んや爾前の星をや。夜は星の時も月の時も衆務を作さず。夜暁て必ず衆務を作す。爾前・迹門にして猶お生死を離れ難し。本門寿量品に至りて必ず生死を離るべし。
『薬王品得意抄』
法華経は亦方便・寿量の二品也。寿量品に至って実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。
『守護国家論』
一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。
『法華題目抄』
かゝるいみじき法華経と申す御経はいかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡夫皆仏になり給ふやうをとかれて候へども、いまだ其のしるしなし。
『千日尼御前御返事』
末法に入つて始めの五百年には法華経の本門前後十三品をば置きて、只寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳尚ほ堪えず。況や始めの五百年をや、何に況や正法の機には迹門尚ほ日浅し、まして本門をや。末法に入つて爾前、迹門は全く出離生死の法にあらず、但だ専ら本門寿量の品に限りて出離生死の要法なり。
『三大秘法稟承事』
一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。
<中略>
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるにいたり。
<中略>
法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う。
<中略>
一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王無く、山河に珠無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真言等の権宗の智者とおぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、且つは自らの依経を讃歎せんために、或は云く 華厳経の教主は報身、法華経は応身と、或は云く 法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位等云云。
<中略>
寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。
『開目抄』
末法の初めは謗法の国、悪機なる故に之を止め、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう也。
『観心本尊抄』
本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨説・当分の得道共に有名無実なり。
『小乗大乗分別鈔』
問て曰く 誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。
答て曰く 寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後之中には末法今時の日蓮等が為也。
疑て云く 此の法門前代に未だ之を聞かず。経文に之有りや。
答て曰く 予が智、前賢に超えず。設ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。卞和が啼泣、伍子胥の悲傷是れ也。然りと雖も略開近顕遠動執生疑之文に云く_然諸新発意菩薩。於仏滅後。若聞是語。或不信受。而起破法。罪業因縁〔然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て若し是の語を聞かば、或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん〕等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫、皆悪道に堕せん等也。
『法華取要抄』
三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。
<中略>
今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続く人也。
『法蓮鈔』
法華経の第一の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし。
『可延定業御書』
今日蓮粗之を勘ふるに、法華経之此の文を重ねて涅槃経に演べて云く_若於三法 修異想者 当知此輩 清浄三帰 則無依処 所有禁戒 皆不具足。終不能証 声聞縁覚 菩薩之果〔若し三法に於て異の想を修する者は、当に知るべし。此の輩は清浄の三帰、則ち依処無く、所有の禁戒、皆具足せず。終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することあたはず〕等云云。此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せる也。寿量品は木に譬へ、爾前迹門をば影に譬へる之文なり。
『富木入道殿御返事』
本門寿量品の意は、爾前・迹門に於て一向三乗倶に三惑を断ぜずと意得るべきなり。
『二乗作仏事』
法華経の寿量品は、釈迦如来の不殺生戒の功徳に当て候品ぞかし。
『主君耳入此法門免与同罪事』
<中略>
次に寿量品と申は本門の肝心也。又此品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず。三世の諸仏の説法の儀式の大要也。教主釈尊寿量品の一念三千の法門を証得し給事は、三世の諸仏と内証等きが故也。但し此法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然也。我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に奉値事は乃往過去に此寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故也。難有法門也。
『太田左衛門尉御返事』
法華経は何れの品にも先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候也。されば常の御所作には、方便法の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給候へ。又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は見に影の随ひ、玉に宝の備はるが如し。寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉。薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には是の方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。
『月水御書(報大学三郎妻書)』
方便品より人記品に至るまでの八品は正には二乗作仏を明かし、傍には菩薩・凡夫の作仏を明かす。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽之五品は、上之八品を末代之凡夫之修行すべき様を説く也。又涌出品は寿量品の序也。分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代之凡夫の行ずべき様、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説く也。
<中略>
爾前は星の如く、法華経の迹門は月の如く、寿量品は日の如し。寿量品の時は迹門の月未だ及ばず。何に況んや爾前の星をや。夜は星の時も月の時も衆務を作さず。夜暁て必ず衆務を作す。爾前・迹門にして猶お生死を離れ難し。本門寿量品に至りて必ず生死を離るべし。
『薬王品得意抄』
法華経は亦方便・寿量の二品也。寿量品に至って実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。
『守護国家論』
一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。
『法華題目抄』
かゝるいみじき法華経と申す御経はいかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡夫皆仏になり給ふやうをとかれて候へども、いまだ其のしるしなし。
『千日尼御前御返事』
末法に入つて始めの五百年には法華経の本門前後十三品をば置きて、只寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳尚ほ堪えず。況や始めの五百年をや、何に況や正法の機には迹門尚ほ日浅し、まして本門をや。末法に入つて爾前、迹門は全く出離生死の法にあらず、但だ専ら本門寿量の品に限りて出離生死の要法なり。
『三大秘法稟承事』
一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。
<中略>
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるにいたり。
<中略>
法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う。
<中略>
一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王無く、山河に珠無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真言等の権宗の智者とおぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、且つは自らの依経を讃歎せんために、或は云く 華厳経の教主は報身、法華経は応身と、或は云く 法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位等云云。
<中略>
寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。
『開目抄』
末法の初めは謗法の国、悪機なる故に之を止め、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう也。
『観心本尊抄』
本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨説・当分の得道共に有名無実なり。
『小乗大乗分別鈔』
問て曰く 誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。
答て曰く 寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後之中には末法今時の日蓮等が為也。
疑て云く 此の法門前代に未だ之を聞かず。経文に之有りや。
答て曰く 予が智、前賢に超えず。設ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。卞和が啼泣、伍子胥の悲傷是れ也。然りと雖も略開近顕遠動執生疑之文に云く_然諸新発意菩薩。於仏滅後。若聞是語。或不信受。而起破法。罪業因縁〔然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て若し是の語を聞かば、或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん〕等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫、皆悪道に堕せん等也。
『法華取要抄』
三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。
<中略>
今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続く人也。
『法蓮鈔』
法華経の第一の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし。
『可延定業御書』
今日蓮粗之を勘ふるに、法華経之此の文を重ねて涅槃経に演べて云く_若於三法 修異想者 当知此輩 清浄三帰 則無依処 所有禁戒 皆不具足。終不能証 声聞縁覚 菩薩之果〔若し三法に於て異の想を修する者は、当に知るべし。此の輩は清浄の三帰、則ち依処無く、所有の禁戒、皆具足せず。終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することあたはず〕等云云。此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せる也。寿量品は木に譬へ、爾前迹門をば影に譬へる之文なり。
『富木入道殿御返事』
本門寿量品の意は、爾前・迹門に於て一向三乗倶に三惑を断ぜずと意得るべきなり。
『二乗作仏事』
法華経の寿量品は、釈迦如来の不殺生戒の功徳に当て候品ぞかし。
『主君耳入此法門免与同罪事』
摂受と折伏について
夫れ摂受折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前きとす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす。常不軽品のごとし。譬えば熱き時に寒水を用い、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失う。末法に摂受折伏あるべし。所謂、悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。
問て云く 摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると、利益あるべしや。
答て云く 涅槃経に云く_迦葉菩薩白仏言如来法身金剛不壊。而未能知所因云何。仏言 迦葉 以能護持正法因縁故得成就是金剛身。迦葉 我護持正法因縁今得成就是金剛身常住不壊。善男子 護持正法者不受五戒不修威儀応持刀剣弓箭<鉾槊> 如是種々説法然故不能作師子吼 不能降伏非法悪人。 如是比丘不能自利及利衆生。当知是輩懈怠懶惰。雖能持戒守護浄行当知是人無所能為 乃至 時有破戒者聞是語已咸共瞋恚害是法師。是説法者設復命終故名持戒自利利他〔迦葉菩薩、仏に白して言さく如来の法身は金剛不壊なり。未だ所因を知ること能わず云何。仏の言く 迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。迦葉、我護持正法の因縁にて、今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、刀剣・弓箭・<鉾槊>を持すべし。是の如く種々に法を説くも、然もなお師子吼を作すこと能わず。非法の悪人を降伏すること能わず。是の如き比丘、自利し、及び衆生を利すること能わず。当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持て浄行を守護すと雖も、当に知るべし、是の人は能く為す所無からん。乃至 時に破戒の者有って是の語を聞き已って、咸く共に瞋恚して是の法師を害せん。是の説法の者、設い復命終すとも、なお持戒自利利他と名づく〕等云云。
章安の云く ̄取捨得宜不可一向等。
天台云く ̄適時而已等云云。
『開目抄』
今、末法の初め、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天、其の国を棄て之を守護せず。此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必因得益とは是也。我が弟子之を惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子也。寂滅道場にも来らず、雙林最後にも訪わず、不孝の失之有り。迹門十四品にも来らず。本門六品にも座を立ち、但、八品の間に来還せり。是の如き高貴の大菩薩、三仏に約足して之を受持す。末法の初めに出ざるべきか。当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。
『観心本尊抄』
抑そも仏法を弘通し、群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時、折伏を行ずるも非也。折伏の時、摂受を行ずるも失也。然るに今世には摂受の時歟、折伏の時歟、先づ是れを知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法・邪師、一人もなしといはん、此の時は山林に交わりて観法を修し、五種・六種、乃至十種等を行ずべき也。
折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ(頤口)譽れを檀(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ、大小先を争はん時は、万事を閣きて謗法を責むべし。是れ折伏の修行也。此の旨を知らずして摂折途に違はば、得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明也。是れ仏法修行の大事なるべし。
譬へば文武両道を以て天下を治むるに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷南蛮西戎北狄蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべき也。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦安堵の思ひをなして世間無為ならん時、甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非也。又、王敵起こらん時、戦場にして武具をば閣きて筆硯を提(ひつさげ)ん事、是れも亦、時に相応せず。摂受折伏の法門も亦、是の如し。正法のみ弘まて邪法・邪師無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝らすべし。是れ天下の静かなる時、筆硯を用ふるが如し。権宗謗法、国にあらん時は、諸事を閣きて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ふるが如し。
然れば章安大師、涅槃の疏に釈して云く ̄昔時平而法弘。応持戒勿持杖。今時嶮而法翳。応持杖勿持戒。今昔倶嶮応倶持杖。今昔倶平応倶持戒。取捨得宜不可一向〔昔の時は平にして而も法弘まる。応に戒を持すべし、杖を持すこと勿れ。今の時は嶮にして而も法かくる。応に杖を持すべし、戒を持すこと勿れ。今昔倶に嶮なれば、応に倶に杖を持すべし。今昔倶に平なれば、応に倶に戒を持すべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず〕。
此の釈の意、分明也。昔は世もすなをに、人もただしくして、邪法邪義無かりき。されば威儀をただし、穏便に行業を積みて、杖をもて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。今の世は濁世也。人の情もひがみゆがんで、権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用也。只、折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又、法門を以ても邪義を責めよと也。取捨、其の旨を得て、一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに、正法一純に弘まる国歟、邪法の興盛する国歟、勘ふべし。
<中略>
歓喜仏の末の世の覚徳比丘、正法を弘めしに、無量の破戒、此の行者を怨みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿鐡仏の国に生まれて、彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙豫国王は不退の位に登る。憑もしい哉、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。
『聖愚問答鈔』
末法の始めの五百年には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此時は闘諍堅固、白法隠没の時と定めて権、実雑乱の砌なり。敵ある時は刀杖弓箭を持つべし、敵なき時は弓箭兵杖何にかせん。今の時は権教が即ち実教の敵と成るなり。一乗流布の時は権教ありて、敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂、折修行の中には法華経の折伏と申すなり。天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな。然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して春菓を求むる者にあらずや。にはとりの暁になくは用なり、よひになくは物怪なり。権、実雑乱の時法華経の敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受を修行せんは、あに法華経修行の時を失う物怪にあらずや。されば末法今の時法華経の折伏の修行をば、誰か経文の如く行じ給へしぞ。
『如説修行鈔』
問て云く 摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると、利益あるべしや。
答て云く 涅槃経に云く_迦葉菩薩白仏言如来法身金剛不壊。而未能知所因云何。仏言 迦葉 以能護持正法因縁故得成就是金剛身。迦葉 我護持正法因縁今得成就是金剛身常住不壊。善男子 護持正法者不受五戒不修威儀応持刀剣弓箭<鉾槊> 如是種々説法然故不能作師子吼 不能降伏非法悪人。 如是比丘不能自利及利衆生。当知是輩懈怠懶惰。雖能持戒守護浄行当知是人無所能為 乃至 時有破戒者聞是語已咸共瞋恚害是法師。是説法者設復命終故名持戒自利利他〔迦葉菩薩、仏に白して言さく如来の法身は金剛不壊なり。未だ所因を知ること能わず云何。仏の言く 迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。迦葉、我護持正法の因縁にて、今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、刀剣・弓箭・<鉾槊>を持すべし。是の如く種々に法を説くも、然もなお師子吼を作すこと能わず。非法の悪人を降伏すること能わず。是の如き比丘、自利し、及び衆生を利すること能わず。当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持て浄行を守護すと雖も、当に知るべし、是の人は能く為す所無からん。乃至 時に破戒の者有って是の語を聞き已って、咸く共に瞋恚して是の法師を害せん。是の説法の者、設い復命終すとも、なお持戒自利利他と名づく〕等云云。
章安の云く ̄取捨得宜不可一向等。
天台云く ̄適時而已等云云。
『開目抄』
今、末法の初め、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天、其の国を棄て之を守護せず。此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必因得益とは是也。我が弟子之を惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子也。寂滅道場にも来らず、雙林最後にも訪わず、不孝の失之有り。迹門十四品にも来らず。本門六品にも座を立ち、但、八品の間に来還せり。是の如き高貴の大菩薩、三仏に約足して之を受持す。末法の初めに出ざるべきか。当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。
『観心本尊抄』
抑そも仏法を弘通し、群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時、折伏を行ずるも非也。折伏の時、摂受を行ずるも失也。然るに今世には摂受の時歟、折伏の時歟、先づ是れを知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法・邪師、一人もなしといはん、此の時は山林に交わりて観法を修し、五種・六種、乃至十種等を行ずべき也。
折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ(頤口)譽れを檀(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ、大小先を争はん時は、万事を閣きて謗法を責むべし。是れ折伏の修行也。此の旨を知らずして摂折途に違はば、得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明也。是れ仏法修行の大事なるべし。
譬へば文武両道を以て天下を治むるに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷南蛮西戎北狄蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべき也。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦安堵の思ひをなして世間無為ならん時、甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非也。又、王敵起こらん時、戦場にして武具をば閣きて筆硯を提(ひつさげ)ん事、是れも亦、時に相応せず。摂受折伏の法門も亦、是の如し。正法のみ弘まて邪法・邪師無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝らすべし。是れ天下の静かなる時、筆硯を用ふるが如し。権宗謗法、国にあらん時は、諸事を閣きて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ふるが如し。
然れば章安大師、涅槃の疏に釈して云く ̄昔時平而法弘。応持戒勿持杖。今時嶮而法翳。応持杖勿持戒。今昔倶嶮応倶持杖。今昔倶平応倶持戒。取捨得宜不可一向〔昔の時は平にして而も法弘まる。応に戒を持すべし、杖を持すこと勿れ。今の時は嶮にして而も法かくる。応に杖を持すべし、戒を持すこと勿れ。今昔倶に嶮なれば、応に倶に杖を持すべし。今昔倶に平なれば、応に倶に戒を持すべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず〕。
此の釈の意、分明也。昔は世もすなをに、人もただしくして、邪法邪義無かりき。されば威儀をただし、穏便に行業を積みて、杖をもて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。今の世は濁世也。人の情もひがみゆがんで、権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用也。只、折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又、法門を以ても邪義を責めよと也。取捨、其の旨を得て、一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに、正法一純に弘まる国歟、邪法の興盛する国歟、勘ふべし。
<中略>
歓喜仏の末の世の覚徳比丘、正法を弘めしに、無量の破戒、此の行者を怨みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿鐡仏の国に生まれて、彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙豫国王は不退の位に登る。憑もしい哉、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。
『聖愚問答鈔』
末法の始めの五百年には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此時は闘諍堅固、白法隠没の時と定めて権、実雑乱の砌なり。敵ある時は刀杖弓箭を持つべし、敵なき時は弓箭兵杖何にかせん。今の時は権教が即ち実教の敵と成るなり。一乗流布の時は権教ありて、敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂、折修行の中には法華経の折伏と申すなり。天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな。然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して春菓を求むる者にあらずや。にはとりの暁になくは用なり、よひになくは物怪なり。権、実雑乱の時法華経の敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受を修行せんは、あに法華経修行の時を失う物怪にあらずや。されば末法今の時法華経の折伏の修行をば、誰か経文の如く行じ給へしぞ。
『如説修行鈔』



