真言は国を亡ぼす悪法(6)
法華真言勝劣事 文永元(1264.07・29)
東寺の弘法大師空海の所立に云く ̄法華経猶劣華厳経。何況於大日経乎〔法華経は猶お華厳経に劣れり。何に況んや大日経に於てをや〕云云。慈覚大師円仁・智証大師・安然和尚等の云く ̄法華経理同大日経。於印真言事者是猶劣也〔法華経の理は大日経に同じ。印と真言との事に於ては、是れ猶お劣れる也〕云云[其の所釈、余処に之を出だす]。
空海は大日経・菩提心論等に依て、十住心を立て、顕密の勝劣を判ず。其の中の第六の他縁大乗心は法相宗。第七の覚心不生心は三論宗。第八の如実一道心は天台宗。第九の極無自性心は華厳宗、第十の秘密荘厳心は真言宗なり。此の所立の次第は浅きより深きに至る。其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云へり。然るに出だす所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに、名目経文之有り。然りと雖も、他縁・覚心・極無自性之三句を法相・三論・華厳に配する名目、之無し。其の上覚心不生と・極無自性と之中間に如実一道之文義、共に之無し。但し此の品之初めに_云何菩提。謂如実知自心〔云何なるか菩提。謂く 如実に自心を知る〕等の文、之有り。此の文を取りて此の二句之中間に置いて天台宗と名づけ、華厳宗に劣る之由、之を存す。住心品に於ては、全く文義、共に之無し。有文有義・無文有義之二句を欠く、信用に及ばず。菩提心論の文に於ても、法華・華厳の勝劣、都て之を見ざる上、此の論は龍猛菩薩の論と云ふ事、上古より諍論、之有り。此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪義之法に背く。
其の上、善無畏・金剛智等、評定有りて大日経之疏義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆也。此の疏義釈之中に、諸宗の勝劣を判ずるに、法華経与大日経 広略之異也〔法華経と大日経とは広略の異なり也〕と定め畢んぬ。空海之徳、貴しと雖も、争でか先師之義に背くべし乎と云ふ難強し[此れ、安然之難也]。之に依て空海之門人、之を陳するに、旁陳答、之有り。或は守護経、或は六波羅蜜経、或は楞伽経、或は金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども、總じて難勢を免れず。
然りと雖も、東寺の末学等、大師の高徳を恐るる之間、強ちに会通を加へんと為れども、結句会通の術計り之無く、問答之法に背いて、伝教大師最澄は弘法大師之弟子也と云云。又宗論の甲乙等、旁論ずる事、之有り云云。
日蓮案じて云く 華厳宗之杜順・智儼・宝蔵等、法華経之始見今見の文に就いて、法華・華厳斉等之義、之を存す。其の後、澄観、始今之文に依て斉等之義を存すること、祖師に違せず。其の上、一往の弁を加へ、法華と華厳と斉等也。但し華厳は法華経より先也。華厳経之時、仏最初に法慧功徳林等の菩薩に対して出世之本懐、之を遂ぐ。然れども、二乗竝びに下賎之凡夫等、根機未熟之故に、之を用ひず。阿含・方等・般若等之調熟に依て、還りて華厳経に入らしむ。之を今見の法華経と名づく。大陳を破るに余残堅からざるが如し等。然れば実に華厳経、法華経に勝れたり等云云。本朝に於て勤操等に値ひて此の義を習学して後、天台・真言を学すと雖も旧執を改めざるが故に此の義を存す歟。何に況んや華厳経は法華経に勝る之由、陳隋より已前、南三北七、皆此の義を存す。天台已後も又諸宗、此の義を存せり。但弘法一人に非ざる歟。
但し澄観、始見今見之文に依て、華厳経は法華経より勝れりと料簡する才覚に於ては、天台智者大師、涅槃経之是経出世 乃至 如法華中〔是の経の出世は 乃至 法華の中の〜如し〕之文に依て、法華・涅槃斉等の義を存するのみに非ず、又勝劣之義を存すれば、此の才覚を学びて此の義を存する歟。此の義、若し僻案ならば、空海之義も又僻見なるべき也。天台・真言の書に云く ̄法華経与大日経 広略之異也。略者法華経也。与大日経と雖斉等理 印真言略之故也。広者大日経。非説極理 説印真言故也。又法華経大日経 有同劣二義。謂理同事劣也。又有二義。一大日経五時摂也。是与義也。二大日経非五時之摂也。是奪義也〔法華経と大日経とは広略の異なり也。略とは法華経也。大日経と斉等の理なりと雖も、印・真言、之を略する故也。広とは大日経なり。極理を説くのみに非ず、印・真言をも説ける故也。又法華経と大日経とに同劣の二義有り。謂く 理同事劣也。又二義有り。一には大日経は五時の摂也。是れ与の義也。二には大日経は五時之摂に非ざる也。是れ奪の義也〕。又云く ̄法華経譬如裸形猛者。大日経帯甲冑猛者〔法華経は譬へば裸形の猛者の如し。大日経は甲冑を帯せる猛者なり〕等云云。又云く ̄無印真言者 不可知其仏〔印・真言無きは其の仏を知るべからず〕等云云。
日蓮不審して云く 何を以て之を知る。理は法華経と大日経と斉等也と云ふ事を。
答ふ 疏義釈竝びに慈覚・智証等之所釈に依る也。
求て云く 此れ等の三蔵大師等は、又何を以て之を知るや。理は斉等の義也と。
答て云く 三蔵大師等をば疑ふべからず等云云。
難じて云く 此の義、論議の法に非ざる上、仏の遺言に違背す。慥かに経文を出だすべし。若し経文無くんば、義分無かるべし、如何。
答ふ 威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等也。文は口伝すべし。
問て云く 法華経に印・真言を略すとは、仏より歟。
答て云く 或は仏と云ひ、或は経家と云ひ、或は訳者と云ふなり。
不審して云く 仏より真言印を略して法華経と大日経と理同事勝の義、之有りといはゞ、此の事何れの経文ぞ乎。文証の所出を知らず、我が意の浮言ならば、之を用ふべからず。若し経家・訳者より之を略すといはゞ、仏説に於てはなんぞ理同事勝の釈を作るべきや。法華経と大日経とは全体斉等なり。能く能く子細を尋ぬべき也。
私に日蓮云く 威儀形色経瑜祇経等の文の如くんば、仏説に於ては法華経に印・真言有る歟。若し爾らば、経家・訳者、之を略せる歟。六波羅蜜経の如きは、経家、之れを略す。旧訳之仁王経の如きは、訳者、之れを略せる歟。若し爾らば、天台・真言之理同事異の釈は、経家並びに訳者之時より法華経・大日経之勝劣也。全く仏説の勝劣に非ず。此れ天台・真言之極也。天台宗之義勢、才覚の為に此の義を難ず。天台・真言之僻見、此の如し。東寺所立之義勢は且く之を置く。僻見眼前の故也。
抑そも天台・真言宗の所立の理同事勝に二難有り。一には法華経と大日経との理同之義、其の文全く之無し。法華経と大日経との先後、如何。既に義釈に二経之前後、之を定め畢りて、法華経は先、大日経は後なりと云へり。若し爾らば、大日経は法華経の重説也、流通也。一法を両度、之を説くが故也。もし所立の如くんば法華経之理を重ねて之を説くを大日経と云ふ。然れば則ち、法華経と大日経と敵論之時は、大日経之理、之を奪ふて法華経に付くべし。但し、大日経の得分は、但印・真言計り也。印契は身業、真言は口業也。身・口のみにして意なくば印・真言有るべからず。手・口等を奪ふて法華経に付けなば、手無くして印を結び、口無くして真言を誦せば、虚空に印・真言を誦結すべき歟。如何。裸形之猛者と甲冑を帯せる猛者と之事。裸形の猛者の進んで大陳を破ると、甲冑を帯せる猛者の退いて一陳をも破らざるとは、何れが勝るゝ哉。又、猛者は法華経也。甲冑は大日経也。猛者無くんば、甲冑何の詮か、之有らん。之は理同之義を何ずる也。
次に事勝の義を難ぜば。法華経には印・真言無く、大日経には印・真言、之有りと云云。印契・真言之有無に付いて二経之勝劣を定むるに、大日経に印・真言有りて、法華経に之無き故に劣ると云はば、阿含経には世界建立・賢聖の地位、是れ分明也。大日経には之無し。若し爾らば、大日経は阿含経より劣る歟。双観経等には四十八願是れ分明也。大日経に之無し。般若経には十八空、是れ分明也。大日経には之無し。此れ等の諸経に劣ると云ふべき歟。又、印・真言無くんば、仏を知るべからず等と云云。今反詰して云く ̄ 理無くんば仏有るべからず。仏無くんば印契・真言一切徒然と成るべし。彼難じて云く 賢聖並びに四十八願等をば印・真言に対すべからず等と云云。今反詰して云く 最上の印・真言、之無くば法華経は大日経等より劣る歟。若し爾らば、法華経には二乗作仏・久遠実成之有り。大日経には之無し。印・真言と、二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥也。諸経に印・真言を簡ばず、大日経、之を説きて何の詮か有るべき乎。二乗若し、灰断之執改めずんば、印・真言も無用也。一代之聖教に、皆二乗を永不成仏と簡ぶ。随て大日経にも之を隔つ。皆、成仏までこそ無からめ、三分が二、之を捨て、百分が六十余分、得道せずんば、仏の大悲、何かせん。凡そ、理の三千、之れ有りて成仏すと云ふ上には、何の不足か有るべき。成仏に於ては、疔(丁→亜)なる仏・中風の覚者は、之有るべからず。之を以て案ずるに、印・真言は規模無き歟。又諸経には、始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず。本無今有之失有れば、大日如来は有名無実也。寿量品に此の旨を顕す。釈尊は、点の一月、諸仏菩薩は、萬水に浮かべる影なりと見えたり。委細之旨は且く之を置く。
又、印・真言無ければ、祈祷有るべからずと云云。是れ又以ての外の僻見也。過去・現在の諸仏、法華経を離れて成仏すべからず。法華経を以て正覚成り給ふ。法華経の行者を捨て給はゞ、諸仏還りて凡夫と成りたまふ。恩を知らざる故也。
又、未来の諸仏之中の二乗も、法華経を離れては永く枯木・敗種也。今は再生也。華果也。他経之行者と相論を為すときは、華光如来・光明如来等は、何れの方に付くべき乎。華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天乃至四悪趣等之衆は皆法華経に於て一念三千・久遠実成の説を聞きて、正覚を成ずべし。何れの方に付くべき乎。真言宗等と外道並びに小乗・権大乗之行者等と、敵対相論を為す之時は、甲乙知り難し。法華経の行者に対する時は、龍と虎と、師子と兎と之闘ひの如く、諍論、分絶えたる者也。慧亮、脳を破する之時、次弟、位に即き、相応加持する之時、真済之悪霊、伏せらるゝ等、是れ也。一向真言の行者は、法華経の行者に劣れる証拠、是れ也。
問て云く 義釈之意は、法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かす耶、如何。
答て云く 共に之を明かす。義釈に云く ̄此経心之実相彼経諸法実相〔此の経の心の実相は、彼の経の諸法実相なりと〕云云。又云く ̄本初是寿量義〔本初は是れ寿量の義なり〕等と云云。
問て云く 華厳宗の義に云く 華厳経には二乗作仏・久遠実成、之を明かす。天台宗は之を許さず。宗論は且く之を置く。人師を捨てゝ本経を存せば、華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似の文、之れ有りと雖も、実には之無し。之を以て之を思ふに、義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も、実には之無き歟。如何。
答て云く 華厳児湯の如く、相似之文、之れ有りと雖も、実義、之無き歟。私に云く 二乗作仏無くんば、四弘誓願、満足すべからず。四弘誓願、満足せずんば、又別願も満すべからず。總別の二願、満せずんば、衆生之成仏も有り難き歟。能く能く意得べし云云。
問て云く 大日経の疏に云く ̄大日如来無始無終。遥勝五百塵点〔大日如来は無始無終なりと。遥かに五百塵点に勝れたり〕。如何。
答ふ 鐐盧遮那の無始無終なる事、華厳・浄名・般若等之諸大乗経に、之を説く。独り大日経のみに非ず。
問て云く 若し爾らば五百塵点は、際限有れば有始有終也。無始無終は際限なし。然れば則ち、法華経は諸経に破せらるゝ歟、如何。
答て云く 他宗之人は此の義を存す。天台一家に於て此の難を会通する者有り難き歟。今、大日経並びに諸大乗経之無始無終は、法身之無始無終也。三身之無始無終に非ず。法華経の五百塵点は、諸大乗経の破せざる伽耶之始成、之を破したる五百塵点也。大日経等の諸大乗経には全く此の義無し。宝塔の涌現、地涌之涌出、弥勒之疑ひ、寿量品之初めの三誓四請。弥勒菩薩、領解之文に、仏説希有法 昔所未曾聞〔仏希有の法を説きたまふ、昔より未だ曾て聞かざる所なり〕等の文、是れ也。大日経六巻、並びに供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部之経の中に、未だ三止四請、二乗之劫国名号、難信難解等の文を見ず。
問て云く 五乗の真言、如何。
答ふ 未だ二乗の真言を知らず。四諦・十二因縁之梵語のみ有る也。又、法身平等に会すること有らんや。
問て云く 慈覚・智証等、理同事勝之義を存す。争でか此れ等の第四等に過ぎん乎。
答て云く 人を以て人を難ずるは、仏之誡め也。何ぞ汝、仏之制誡に違背する乎。但、経文を以て勝劣之義を存すべし。
難じて云く 末学之身として祖師之言に背かば、之を難ぜざらん耶。
答ふ 末学の祖師に違背する、之を難ぜば何ぞ智証・慈覚之天台・妙楽に違するを、何ぞ之を難ぜざる耶。
問て云く 相違如何。
答て云く 天台・妙楽之意は、已今当の三説之中に、法華経に勝れたる経、之れ有るべからず。若し法華経に勝れたる経有りといはゞ、一宗之宗義、之を壊るべきの由、之を存す。若し大日経、法華経に勝るといはゞ、天台・妙楽之宗義、忽ちに破るべき乎。
問て云く 天台・妙楽之已今当の宗義、証拠経文に有り乎。
答て云く 之有り。法華経法師品に云く_我所説経典。無量千万億。已説。今説。当説。而於其中。此法華経。最為難信難解〔我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり〕等と云云。此の経文の如きんば、五十余年之釈迦所説之一切経の内には法華経最第一也。
難じて云く 真言師の云く 法華経は釈迦所説の一切経之中に第一也。大日経は大日如来所説の経也と。
答て云く 釈迦如来より外に大日如来、閻浮提に於て八相成道して大日経を説ける歟[是一]。六波羅蜜経に云く_〔過去現在並釈迦牟尼仏之所説諸経分為五蔵 其中第五陀羅尼蔵真言也〔過去・現在、並びに釈迦牟尼仏の所説の諸経を分かちて五蔵と為し、其の中の第五の陀羅尼蔵は真言なり〕と。真言の経、釈迦如来の所説に非ずといはゞ、経文に違す〔是二〕。我所説経典等の文は、釈迦如来の正直捨方便之説也。大日如来之証明、分身之諸仏、広長舌相之経文也〔是三〕。五仏章、尽く諸仏皆法華経を第一也と時給ふ〔是四〕。以要言之、如来一切所有之法〔要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法〕、乃至 皆於此経宣示顕説〔皆此の経に於て宣示顕説す〕等と云云。此の経文の如くならば、法華経は釈迦所説之諸経の第一なるのみに非ず、大日如来、十方無量諸仏之諸経之中に、法華経第一也。此の外、一仏二仏之所説の諸経之中に、法華経に勝れたる之経有りと、之云はば、信用有るべからず[是五]大日経等之諸の真言経之中に法華経に勝れたる由の経文、之無し[是六]。仏より外之天竺・震旦・日本国之論師・人師之中に、天台大師より外の人師、所釈之中に、一念三千之名目、之無し。若し一念三千を立てざれば、性悪之義、之無し。性悪之義、之無くんば、仏・菩薩の普現色身、不動・愛染等の降伏の形、十界之曼荼羅、三十七尊等、本無今有の外道之法に同ず歟[是七]
問て云く 七義之中、一一難勢、之有り。然りと雖も、六義は且く之を置く。第七義、如何。華厳之澄観・真言之一行等、皆性悪之義を存す。何ぞ諸宗に此の義無しと云ふ哉。
答て云く 華厳の澄観・真言の一行は、天台所立之義を盗んで、自宗の義と成す歟。此の事余処に勘へたるが如し。
問て云く 天台大師の玄義の三に云く ̄法華總括衆経〔法華は衆経を總括す。〕。乃至 舌爛口中〔舌、口中に爛る。〕〜莫以人情局彼太虚也〔人情を以て彼の大虚を局むること莫れ。〕。釈籤の三に云く ̄不了法華宗極之旨。謂記聲聞事相而已不如華嚴般若融通無礙。〜諌曉不止舌爛何疑〔法華宗極の旨を了せずして、聲聞に記する事相、而るに已に、華嚴・般若の融通無礙なるに如かずと謂ふ。〜諌曉すれども止まず。舌の爛れんこと、何ぞ疑はん〕。乃至 已今當妙於茲固迷。舌爛不止。猶爲華報。謗法之罪苦流長劫〔已今當の妙、ここに於いて固く迷へり。舌爛れて止まざるは、猶ほ、これ華報なり。謗法の罪苦、長劫に流る〕等云云。若し、天台・妙楽之釈、実ならば、南三北七、並びに華厳・法相・三論・東寺之弘法等、舌爛れんこと、難の疑ひ有らん耶。乃至、苦流長劫の者なる歟。是れは且く之を置く。慈覚・智証等之、親り此の宗義を承けたる者、法華経は大日経より劣るの義、存すべし。若し、其の義ならば、此の人、人の舌爛口中苦流長劫は、如何。
答て云く 此の義は最も上之難の義也。口伝に在り云云。
文永元年[甲子]七月二十九日之を記す 日 蓮
東寺の弘法大師空海の所立に云く ̄法華経猶劣華厳経。何況於大日経乎〔法華経は猶お華厳経に劣れり。何に況んや大日経に於てをや〕云云。慈覚大師円仁・智証大師・安然和尚等の云く ̄法華経理同大日経。於印真言事者是猶劣也〔法華経の理は大日経に同じ。印と真言との事に於ては、是れ猶お劣れる也〕云云[其の所釈、余処に之を出だす]。
空海は大日経・菩提心論等に依て、十住心を立て、顕密の勝劣を判ず。其の中の第六の他縁大乗心は法相宗。第七の覚心不生心は三論宗。第八の如実一道心は天台宗。第九の極無自性心は華厳宗、第十の秘密荘厳心は真言宗なり。此の所立の次第は浅きより深きに至る。其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云へり。然るに出だす所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに、名目経文之有り。然りと雖も、他縁・覚心・極無自性之三句を法相・三論・華厳に配する名目、之無し。其の上覚心不生と・極無自性と之中間に如実一道之文義、共に之無し。但し此の品之初めに_云何菩提。謂如実知自心〔云何なるか菩提。謂く 如実に自心を知る〕等の文、之有り。此の文を取りて此の二句之中間に置いて天台宗と名づけ、華厳宗に劣る之由、之を存す。住心品に於ては、全く文義、共に之無し。有文有義・無文有義之二句を欠く、信用に及ばず。菩提心論の文に於ても、法華・華厳の勝劣、都て之を見ざる上、此の論は龍猛菩薩の論と云ふ事、上古より諍論、之有り。此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪義之法に背く。
其の上、善無畏・金剛智等、評定有りて大日経之疏義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆也。此の疏義釈之中に、諸宗の勝劣を判ずるに、法華経与大日経 広略之異也〔法華経と大日経とは広略の異なり也〕と定め畢んぬ。空海之徳、貴しと雖も、争でか先師之義に背くべし乎と云ふ難強し[此れ、安然之難也]。之に依て空海之門人、之を陳するに、旁陳答、之有り。或は守護経、或は六波羅蜜経、或は楞伽経、或は金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども、總じて難勢を免れず。
然りと雖も、東寺の末学等、大師の高徳を恐るる之間、強ちに会通を加へんと為れども、結句会通の術計り之無く、問答之法に背いて、伝教大師最澄は弘法大師之弟子也と云云。又宗論の甲乙等、旁論ずる事、之有り云云。
日蓮案じて云く 華厳宗之杜順・智儼・宝蔵等、法華経之始見今見の文に就いて、法華・華厳斉等之義、之を存す。其の後、澄観、始今之文に依て斉等之義を存すること、祖師に違せず。其の上、一往の弁を加へ、法華と華厳と斉等也。但し華厳は法華経より先也。華厳経之時、仏最初に法慧功徳林等の菩薩に対して出世之本懐、之を遂ぐ。然れども、二乗竝びに下賎之凡夫等、根機未熟之故に、之を用ひず。阿含・方等・般若等之調熟に依て、還りて華厳経に入らしむ。之を今見の法華経と名づく。大陳を破るに余残堅からざるが如し等。然れば実に華厳経、法華経に勝れたり等云云。本朝に於て勤操等に値ひて此の義を習学して後、天台・真言を学すと雖も旧執を改めざるが故に此の義を存す歟。何に況んや華厳経は法華経に勝る之由、陳隋より已前、南三北七、皆此の義を存す。天台已後も又諸宗、此の義を存せり。但弘法一人に非ざる歟。
但し澄観、始見今見之文に依て、華厳経は法華経より勝れりと料簡する才覚に於ては、天台智者大師、涅槃経之是経出世 乃至 如法華中〔是の経の出世は 乃至 法華の中の〜如し〕之文に依て、法華・涅槃斉等の義を存するのみに非ず、又勝劣之義を存すれば、此の才覚を学びて此の義を存する歟。此の義、若し僻案ならば、空海之義も又僻見なるべき也。天台・真言の書に云く ̄法華経与大日経 広略之異也。略者法華経也。与大日経と雖斉等理 印真言略之故也。広者大日経。非説極理 説印真言故也。又法華経大日経 有同劣二義。謂理同事劣也。又有二義。一大日経五時摂也。是与義也。二大日経非五時之摂也。是奪義也〔法華経と大日経とは広略の異なり也。略とは法華経也。大日経と斉等の理なりと雖も、印・真言、之を略する故也。広とは大日経なり。極理を説くのみに非ず、印・真言をも説ける故也。又法華経と大日経とに同劣の二義有り。謂く 理同事劣也。又二義有り。一には大日経は五時の摂也。是れ与の義也。二には大日経は五時之摂に非ざる也。是れ奪の義也〕。又云く ̄法華経譬如裸形猛者。大日経帯甲冑猛者〔法華経は譬へば裸形の猛者の如し。大日経は甲冑を帯せる猛者なり〕等云云。又云く ̄無印真言者 不可知其仏〔印・真言無きは其の仏を知るべからず〕等云云。
日蓮不審して云く 何を以て之を知る。理は法華経と大日経と斉等也と云ふ事を。
答ふ 疏義釈竝びに慈覚・智証等之所釈に依る也。
求て云く 此れ等の三蔵大師等は、又何を以て之を知るや。理は斉等の義也と。
答て云く 三蔵大師等をば疑ふべからず等云云。
難じて云く 此の義、論議の法に非ざる上、仏の遺言に違背す。慥かに経文を出だすべし。若し経文無くんば、義分無かるべし、如何。
答ふ 威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等也。文は口伝すべし。
問て云く 法華経に印・真言を略すとは、仏より歟。
答て云く 或は仏と云ひ、或は経家と云ひ、或は訳者と云ふなり。
不審して云く 仏より真言印を略して法華経と大日経と理同事勝の義、之有りといはゞ、此の事何れの経文ぞ乎。文証の所出を知らず、我が意の浮言ならば、之を用ふべからず。若し経家・訳者より之を略すといはゞ、仏説に於てはなんぞ理同事勝の釈を作るべきや。法華経と大日経とは全体斉等なり。能く能く子細を尋ぬべき也。
私に日蓮云く 威儀形色経瑜祇経等の文の如くんば、仏説に於ては法華経に印・真言有る歟。若し爾らば、経家・訳者、之を略せる歟。六波羅蜜経の如きは、経家、之れを略す。旧訳之仁王経の如きは、訳者、之れを略せる歟。若し爾らば、天台・真言之理同事異の釈は、経家並びに訳者之時より法華経・大日経之勝劣也。全く仏説の勝劣に非ず。此れ天台・真言之極也。天台宗之義勢、才覚の為に此の義を難ず。天台・真言之僻見、此の如し。東寺所立之義勢は且く之を置く。僻見眼前の故也。
抑そも天台・真言宗の所立の理同事勝に二難有り。一には法華経と大日経との理同之義、其の文全く之無し。法華経と大日経との先後、如何。既に義釈に二経之前後、之を定め畢りて、法華経は先、大日経は後なりと云へり。若し爾らば、大日経は法華経の重説也、流通也。一法を両度、之を説くが故也。もし所立の如くんば法華経之理を重ねて之を説くを大日経と云ふ。然れば則ち、法華経と大日経と敵論之時は、大日経之理、之を奪ふて法華経に付くべし。但し、大日経の得分は、但印・真言計り也。印契は身業、真言は口業也。身・口のみにして意なくば印・真言有るべからず。手・口等を奪ふて法華経に付けなば、手無くして印を結び、口無くして真言を誦せば、虚空に印・真言を誦結すべき歟。如何。裸形之猛者と甲冑を帯せる猛者と之事。裸形の猛者の進んで大陳を破ると、甲冑を帯せる猛者の退いて一陳をも破らざるとは、何れが勝るゝ哉。又、猛者は法華経也。甲冑は大日経也。猛者無くんば、甲冑何の詮か、之有らん。之は理同之義を何ずる也。
次に事勝の義を難ぜば。法華経には印・真言無く、大日経には印・真言、之有りと云云。印契・真言之有無に付いて二経之勝劣を定むるに、大日経に印・真言有りて、法華経に之無き故に劣ると云はば、阿含経には世界建立・賢聖の地位、是れ分明也。大日経には之無し。若し爾らば、大日経は阿含経より劣る歟。双観経等には四十八願是れ分明也。大日経に之無し。般若経には十八空、是れ分明也。大日経には之無し。此れ等の諸経に劣ると云ふべき歟。又、印・真言無くんば、仏を知るべからず等と云云。今反詰して云く ̄ 理無くんば仏有るべからず。仏無くんば印契・真言一切徒然と成るべし。彼難じて云く 賢聖並びに四十八願等をば印・真言に対すべからず等と云云。今反詰して云く 最上の印・真言、之無くば法華経は大日経等より劣る歟。若し爾らば、法華経には二乗作仏・久遠実成之有り。大日経には之無し。印・真言と、二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥也。諸経に印・真言を簡ばず、大日経、之を説きて何の詮か有るべき乎。二乗若し、灰断之執改めずんば、印・真言も無用也。一代之聖教に、皆二乗を永不成仏と簡ぶ。随て大日経にも之を隔つ。皆、成仏までこそ無からめ、三分が二、之を捨て、百分が六十余分、得道せずんば、仏の大悲、何かせん。凡そ、理の三千、之れ有りて成仏すと云ふ上には、何の不足か有るべき。成仏に於ては、疔(丁→亜)なる仏・中風の覚者は、之有るべからず。之を以て案ずるに、印・真言は規模無き歟。又諸経には、始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず。本無今有之失有れば、大日如来は有名無実也。寿量品に此の旨を顕す。釈尊は、点の一月、諸仏菩薩は、萬水に浮かべる影なりと見えたり。委細之旨は且く之を置く。
又、印・真言無ければ、祈祷有るべからずと云云。是れ又以ての外の僻見也。過去・現在の諸仏、法華経を離れて成仏すべからず。法華経を以て正覚成り給ふ。法華経の行者を捨て給はゞ、諸仏還りて凡夫と成りたまふ。恩を知らざる故也。
又、未来の諸仏之中の二乗も、法華経を離れては永く枯木・敗種也。今は再生也。華果也。他経之行者と相論を為すときは、華光如来・光明如来等は、何れの方に付くべき乎。華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天乃至四悪趣等之衆は皆法華経に於て一念三千・久遠実成の説を聞きて、正覚を成ずべし。何れの方に付くべき乎。真言宗等と外道並びに小乗・権大乗之行者等と、敵対相論を為す之時は、甲乙知り難し。法華経の行者に対する時は、龍と虎と、師子と兎と之闘ひの如く、諍論、分絶えたる者也。慧亮、脳を破する之時、次弟、位に即き、相応加持する之時、真済之悪霊、伏せらるゝ等、是れ也。一向真言の行者は、法華経の行者に劣れる証拠、是れ也。
問て云く 義釈之意は、法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かす耶、如何。
答て云く 共に之を明かす。義釈に云く ̄此経心之実相彼経諸法実相〔此の経の心の実相は、彼の経の諸法実相なりと〕云云。又云く ̄本初是寿量義〔本初は是れ寿量の義なり〕等と云云。
問て云く 華厳宗の義に云く 華厳経には二乗作仏・久遠実成、之を明かす。天台宗は之を許さず。宗論は且く之を置く。人師を捨てゝ本経を存せば、華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似の文、之れ有りと雖も、実には之無し。之を以て之を思ふに、義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も、実には之無き歟。如何。
答て云く 華厳児湯の如く、相似之文、之れ有りと雖も、実義、之無き歟。私に云く 二乗作仏無くんば、四弘誓願、満足すべからず。四弘誓願、満足せずんば、又別願も満すべからず。總別の二願、満せずんば、衆生之成仏も有り難き歟。能く能く意得べし云云。
問て云く 大日経の疏に云く ̄大日如来無始無終。遥勝五百塵点〔大日如来は無始無終なりと。遥かに五百塵点に勝れたり〕。如何。
答ふ 鐐盧遮那の無始無終なる事、華厳・浄名・般若等之諸大乗経に、之を説く。独り大日経のみに非ず。
問て云く 若し爾らば五百塵点は、際限有れば有始有終也。無始無終は際限なし。然れば則ち、法華経は諸経に破せらるゝ歟、如何。
答て云く 他宗之人は此の義を存す。天台一家に於て此の難を会通する者有り難き歟。今、大日経並びに諸大乗経之無始無終は、法身之無始無終也。三身之無始無終に非ず。法華経の五百塵点は、諸大乗経の破せざる伽耶之始成、之を破したる五百塵点也。大日経等の諸大乗経には全く此の義無し。宝塔の涌現、地涌之涌出、弥勒之疑ひ、寿量品之初めの三誓四請。弥勒菩薩、領解之文に、仏説希有法 昔所未曾聞〔仏希有の法を説きたまふ、昔より未だ曾て聞かざる所なり〕等の文、是れ也。大日経六巻、並びに供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部之経の中に、未だ三止四請、二乗之劫国名号、難信難解等の文を見ず。
問て云く 五乗の真言、如何。
答ふ 未だ二乗の真言を知らず。四諦・十二因縁之梵語のみ有る也。又、法身平等に会すること有らんや。
問て云く 慈覚・智証等、理同事勝之義を存す。争でか此れ等の第四等に過ぎん乎。
答て云く 人を以て人を難ずるは、仏之誡め也。何ぞ汝、仏之制誡に違背する乎。但、経文を以て勝劣之義を存すべし。
難じて云く 末学之身として祖師之言に背かば、之を難ぜざらん耶。
答ふ 末学の祖師に違背する、之を難ぜば何ぞ智証・慈覚之天台・妙楽に違するを、何ぞ之を難ぜざる耶。
問て云く 相違如何。
答て云く 天台・妙楽之意は、已今当の三説之中に、法華経に勝れたる経、之れ有るべからず。若し法華経に勝れたる経有りといはゞ、一宗之宗義、之を壊るべきの由、之を存す。若し大日経、法華経に勝るといはゞ、天台・妙楽之宗義、忽ちに破るべき乎。
問て云く 天台・妙楽之已今当の宗義、証拠経文に有り乎。
答て云く 之有り。法華経法師品に云く_我所説経典。無量千万億。已説。今説。当説。而於其中。此法華経。最為難信難解〔我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり〕等と云云。此の経文の如きんば、五十余年之釈迦所説之一切経の内には法華経最第一也。
難じて云く 真言師の云く 法華経は釈迦所説の一切経之中に第一也。大日経は大日如来所説の経也と。
答て云く 釈迦如来より外に大日如来、閻浮提に於て八相成道して大日経を説ける歟[是一]。六波羅蜜経に云く_〔過去現在並釈迦牟尼仏之所説諸経分為五蔵 其中第五陀羅尼蔵真言也〔過去・現在、並びに釈迦牟尼仏の所説の諸経を分かちて五蔵と為し、其の中の第五の陀羅尼蔵は真言なり〕と。真言の経、釈迦如来の所説に非ずといはゞ、経文に違す〔是二〕。我所説経典等の文は、釈迦如来の正直捨方便之説也。大日如来之証明、分身之諸仏、広長舌相之経文也〔是三〕。五仏章、尽く諸仏皆法華経を第一也と時給ふ〔是四〕。以要言之、如来一切所有之法〔要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法〕、乃至 皆於此経宣示顕説〔皆此の経に於て宣示顕説す〕等と云云。此の経文の如くならば、法華経は釈迦所説之諸経の第一なるのみに非ず、大日如来、十方無量諸仏之諸経之中に、法華経第一也。此の外、一仏二仏之所説の諸経之中に、法華経に勝れたる之経有りと、之云はば、信用有るべからず[是五]大日経等之諸の真言経之中に法華経に勝れたる由の経文、之無し[是六]。仏より外之天竺・震旦・日本国之論師・人師之中に、天台大師より外の人師、所釈之中に、一念三千之名目、之無し。若し一念三千を立てざれば、性悪之義、之無し。性悪之義、之無くんば、仏・菩薩の普現色身、不動・愛染等の降伏の形、十界之曼荼羅、三十七尊等、本無今有の外道之法に同ず歟[是七]
問て云く 七義之中、一一難勢、之有り。然りと雖も、六義は且く之を置く。第七義、如何。華厳之澄観・真言之一行等、皆性悪之義を存す。何ぞ諸宗に此の義無しと云ふ哉。
答て云く 華厳の澄観・真言の一行は、天台所立之義を盗んで、自宗の義と成す歟。此の事余処に勘へたるが如し。
問て云く 天台大師の玄義の三に云く ̄法華總括衆経〔法華は衆経を總括す。〕。乃至 舌爛口中〔舌、口中に爛る。〕〜莫以人情局彼太虚也〔人情を以て彼の大虚を局むること莫れ。〕。釈籤の三に云く ̄不了法華宗極之旨。謂記聲聞事相而已不如華嚴般若融通無礙。〜諌曉不止舌爛何疑〔法華宗極の旨を了せずして、聲聞に記する事相、而るに已に、華嚴・般若の融通無礙なるに如かずと謂ふ。〜諌曉すれども止まず。舌の爛れんこと、何ぞ疑はん〕。乃至 已今當妙於茲固迷。舌爛不止。猶爲華報。謗法之罪苦流長劫〔已今當の妙、ここに於いて固く迷へり。舌爛れて止まざるは、猶ほ、これ華報なり。謗法の罪苦、長劫に流る〕等云云。若し、天台・妙楽之釈、実ならば、南三北七、並びに華厳・法相・三論・東寺之弘法等、舌爛れんこと、難の疑ひ有らん耶。乃至、苦流長劫の者なる歟。是れは且く之を置く。慈覚・智証等之、親り此の宗義を承けたる者、法華経は大日経より劣るの義、存すべし。若し、其の義ならば、此の人、人の舌爛口中苦流長劫は、如何。
答て云く 此の義は最も上之難の義也。口伝に在り云云。
文永元年[甲子]七月二十九日之を記す 日 蓮
真言は国を亡ぼす悪法(5)
真言見聞 文永九年
問ふ 真言亡国とは、証文何れの経論に出でたる耶。
答ふ 法華誹謗、正法向背の故也。
問ふ 亡国の証文、之無くば、云何に信ずべき耶。
答ふ 謗法之段は勿論なる歟。若し謗法ならば亡国・堕獄、疑ひ無し。凡そ謗法とは、謗仏謗僧也。三宝一体なる故也。是れ涅槃経の文也。爰を以て法華経には則断一切 世間仏種〔則ち一切世間の 仏種を断ぜん〕と説く。是れを即ち一闡提と名づく。涅槃経の一と十と十一とを委細に見るべき也。
罪に軽重有れば、獄に浅深を構へたり。殺生・偸盗等、乃至一大三千世界の衆生を殺害すれども、等活・黒縄等の上、七大地獄之因として無間に堕ちる事は都て無し。阿鼻の業因は、経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法・誹謗の者也。但し五逆之中に一逆を犯す者は無間に堕すと雖も、一中劫を経て罪を尽くして浮かぶ。一戒をも犯さず道心堅固にして後世を願ふと雖も、法華に背きぬれば無間に堕して展転無数劫と見えたり。然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり。是れを以て国家を祈らんに天下将に泰平なるべしや。諸法は現量に如かず。-
承久の兵乱之時、関東には其の用意もなし。国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰ぎて十五壇之秘法を行はる。其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行はる。七日に満せし日、京方〈かみがた〉負け畢んぬ。亡国之現証に非ず乎。是れは僅かに今生之小事也。権教邪法に仍て悪道に堕せん事、浅猿〈あさまし〉かるべし。
問ふ 権教邪執之証文は如何。既に真言教は大日覚王の秘法、即身成仏の奥蔵也。故に上下一同に是の法に帰し、天下悉く大法を仰ぐ。海内を静め天下を治むる事、偏に真言之力也。然るを権教邪法と云ふ事、如何。
答ふ 権教と云ふ事。四教含蔵、帯方便之説なる経文顕然なれば也。然らば四味の諸経に同じて久遠を隠し二乗を隔つ。況んや尽形寿の戒等を述ぶれば小乗権教なる事、疑ひ無し。爰を以て遣唐の疑問に、禅林寺の広修・国清寺の維鑰之決判、分明に方等部之摂と云ひし也。
疑て云く 経文の権教は且く之を置く。唐決之事は、天台の先徳円珍大師、之を破す。大日経の旨帰に ̄法華尚不及 況自余教乎〔法華尚及ばず、況や自余の教をや〕云云。既に祖師の所判也。誰か之に背くべき耶。
決して云く 道理、前の如し。依法不依人之意也。但し此の釈を智証の釈と云ふ事、不審也。其の故は授決集の下に云く ̄若望華厳・法華・涅槃等経是摂引門〔若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門なり〕と云へり。広修・維鑰を破する時は法華尚不及と書き、授決集には是摂引門と云ひて、二義相違せり。旨帰が円珍之作ならば、授決集は智証の釈に非ず。授決集が実作ならば、旨帰は智証之釈に非ず。授決集が智証之釈と云ふ事、天下之人、皆、之を知る上、公家の日記にも之を載せり。旨帰は人多く之を知らず。公家の日記にも之無し。此を以て彼を思ふに後の人作りて智証の釈と号する歟。能く能く尋ぬべき也。
授決集は正しき智証の自筆也。密家に四句の五蔵を設けて十住心を立て論を引き、伝を三国に寄せ、家々の日記と号し、我が宗を厳るとも、皆是れ妄語、胸臆之浮言にして、荘厳己義之法門也。
所詮、法華経は大日経より三重の劣、戯論之法にして、釈尊は無明纏縛之仏と云ふ事、慥かなる如来之金言経文を尋ぬべし。証文無くんば何と云ふとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家之肝心也。返す返す忘失する事勿れ。
何れの宗にも正法誹謗之失、之有り。対論之時は、但此の一段に在り。仏法は自他宗異なりと雖も、翫ぶ本意は、道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為也。謗法に成り伏して悪道に堕すべくは、文殊の智慧・富楼那の弁説、一分も無益也。無間に堕する程の邪法の行人にて国家を祈祷せんに将た善事と為すべき耶。顕密対判之釈は且く之を置く。華厳に法華劣ると云ふ事能く能く思惟すべき也。-
華厳経の十二に云く四十華厳也_又彼所修一切功徳六分之一常属於王。如是障修及造不善所有罪業六分之一還属於王〔また彼の所修の一切功徳の六分の一は常に王に属す。是の如く修および造を障る不善所有の罪業の六分の一は還りて王に属す〕文。
六波羅蜜経の六に云く_若王境内有犯殺者其王便獲第六分罪。偸盗・邪行及以妄語亦復如是。何以故 若法非法王為根本。於罪於福第六一分皆属於王〔若し王の境内に殺を犯す者あれば、其の王すなわち第六分の罪を獲ん。偸盗・邪行および妄語も、またまた是の如し。何を以ての故に。若しは、法も非法も王を根本と為す。罪に於ても福に於ても第六の一分は皆王に属するなり〕云云。
最勝王経に云く_由愛敬悪人治罰善人故 他方怨賊来国人遭喪乱〔悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来りて国人喪乱に遭ふ〕等云云。大集経に云く_若復有諸刹利国王作諸非法 悩乱世尊声聞弟子 若以毀罵刀杖打斫及奪衣鉢種種資具 若他給施作留難者我等令彼自然卒起他方怨敵 及自国土亦令兵起病疫飢饉非時風雨闘諍言訟。又令其王不久復当亡失己国〔若しは復諸の刹利国王有て諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪ひ、若しは他の給施せんに留難を作さば我等彼をして自然に他方の怨敵を卒起せしめん、及び自の国土にも亦兵起り病疫飢饉し非時の風雨闘諍言訟せしめん。又其王をして久しからざらしめ復当に己が国を亡失す〕云云。
大三界義に云く_爾時諸人共聚衆内立一有徳之人名為田主 而各以所収之物六分之一以貢輪田主。以一人為主以政法治之。因茲以後立刹利種大衆欽仰恩流率土。復名大三末多王〔爾の時に諸人共にあつまりて衆の内に一の有徳の人を立てて、名づけて田主と為し、而しておのおの所収の物、六分の一を以て、以て田主に貢輪す。一人を以て主と為し、政法を以て之を治む。茲に因て、以後、刹利種を立て、大衆、欽仰して恩を率土に流す。また大三末多王〈たいさんまたおう〉と名づく〕已上、倶舎に依て之を出す也
顕密の事
無量義経十功徳品に云く 第四功徳の下深入諸仏。秘密之法。所可演説。無違無失〔深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく〕。
抑そも大日之三部を密教と云ひ、法華経を顕教と云ふ事、金言、出だす所を知らず。所詮、真言を密と云ふは、是の密は隠密之密なる歟、微密之密なる歟。物を秘するに二種有り。一には金銀等を蔵に籠むるは微密也。二には錙片輪等を隠すは隠密也。ー
然れば則ち真言を密と云ふは隠密也。其の故は始成と説く故に長寿を隠し、二乗を隔つる故に記小無し。此の二つは教法之心膸、文義之綱骨也。微密之密は法華也。
然れば則ち文に云く 四巻法師品に云く_薬王。此経是諸仏。秘要之蔵〔薬王此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり〕云云。五巻安楽行品に云く_文殊師利。此法華経。諸仏如来。秘密之蔵。於諸経中。最在其上〔文殊師利、此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり〕云云。寿量品に云く_如来秘密。神通之力〔如来の秘密・神通の力を〕云云。如来神力品に云く_如来一切。秘要之蔵〔如来の一切の秘要の蔵〕云云。
加之、真言の高祖、龍樹菩薩、法華経を秘密と名づく。二乗作仏有るが故にと釈せり。次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず。所以は何ん。大日経に云く_仏説不思議真言相道法。不共一切声聞・縁覚。亦非世尊普為一切衆生〔仏、不思議真言の相・道・法を説きて一切の証文縁覚を共にせず。また、世尊普く一切衆生の為にするに非ず〕云云。二乗を隔つる事、前四味之諸教に同じ。随て唐決には方等部の摂と判ず。経文には四教含蔵と見えたり。
大論第百巻に云く ̄第九十品の釈問曰。更有何法甚深勝般若者。而以般若嘱累阿難。而余経嘱累菩薩。答曰。般若波羅蜜非秘密法。而法華等諸経。説阿羅漢受決作仏。大菩薩能受用。譬如大薬師能以毒為薬。〔問て云く 更に何れの法か甚深にして般若に勝れたる者有りて、而も般若を以て阿難に嘱累し、而も余経をば菩薩に嘱累するや。答て曰く 般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に。阿羅漢の受決作仏を説きて、大菩薩、能く受用す。譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し〕云云。
玄義の六に云く ̄譬如良医。能変毒為薬。二乗根敗不能反復。名之為毒。今経得記。即是変毒為薬。故論云。余経非秘密。法華為秘密也。復有本地所説諸経所無。在後当広明云云〔譬へば良医の能く毒を変じて薬と為すが如し。二乗の根敗、反復すること能はず。之を名づけて毒と為す。今経に記を得るは、即ち是れ、毒を変じて薬と為す。故に論に云く 余経は秘密に非ず。法華を秘密と為すなり。また本地所説の有り。諸経に無き所なり。後に在りて当に広く明かす〕云云。-
籤の六に云く ̄第四引証中言論云等者。大論文証也。言秘密者。非八教中之秘密。但是前所未説為秘。開已無外為蜜。次復有下。本門。言在後者。指第七巻。〔第四に引証の中、論云等と言ふは、大論の文証なり。秘密と言ふは、八教の中の秘密には非ず。ただ是れ前に未だ説かざる所を秘と為し、開き已れば外無きを蜜と為す〕文
文句の八に云く ̄方等・般若雖説実相之蔵。亦未説五乗作仏。亦未発迹顕本。頓漸諸経皆未融会。故名為秘〔方等・般若に実相の蔵を説くと雖も、また未だ五乗の作仏を説かず。また未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経は、皆、未だ融会せず。故に名づけて秘と為す〕。文
記の八に云く ̄大論云 法華是秘密付諸菩薩。如今下文召於下方 尚待本眷属。験余未堪〔大論に云く 法華は是れ秘密にして諸の菩薩に付す、と。今下の文に下方を召すが如きは、尚お本眷属を待つ。あきらけし、余は未だ堪へず〕。秀句の下に龍女之成仏を釈して身・口密なりと云へり云云。
此れ等之経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き、秘密教と定め給へるを、経論に文証も無き妄語を吐き、法華を顕教と名づけて之を下し、之を謗ず。豈に大謗法に非ずや。
抑そも唐朝之善無畏・金剛智等、法華経と大日経の両経に理同事勝之釈を作るは梵華両国共に勝劣歟。法華経も天竺には十六里之宝蔵に有れば無量の事有れども、流沙葱嶺等の険難、五万八千里十万里之路次、容易ならざる間、枝葉は之を略せり。此れ等は訳者之意楽に随ふ。広を好み略を悪む人も有り。略を好み広を悪む人も有り。然れば則ち玄奘は広を好み四十巻之般若経を六百巻に成し、羅什三蔵は略を好みて千巻之大論を百巻に縮めたり。印契・真言之勝るると云ふ事、是れを以て弁へ難し。羅什所訳の法華経には是れを宗とせず。不空三蔵の法華儀軌には印・真言、之れ有り。仁王経も羅什の所訳には印・真言、之無し。不空所訳之経には之を副えたり。是れを知んぬ、訳者の意楽也と。
其の上、法華経には為説実相印と説きて合掌の印、之れ有り。譬諭品には_我此法印 為欲利益 世間故説〔我が此の法印は 世間を利益せんと 欲するを為ての故に説く〕云云。此れ等の文、如何。只広略の異なる歟。又、舌相の言語、皆是れ真言也。法華経には ̄治生産業皆与実相不相違背〔一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず〕と宣べ、亦是前仏<亦是先仏>。経中所説〔亦是れ前の仏経の中に説く所なり〕と説く。此れ等は如何。真言こそ有名無実之真言、未顕真実之権教なれば、成仏得道、跡形も無し。始成を談じて久遠無ければ、性徳本有之仏性も無し。三乗が仏の出世を感ずるに三人に二人を捨て、三十人に二十人を除く。皆令入仏道の仏の本願、満足すべからず。十界互具は思ひもよらず。まして非情の上の色心の因果、争でか説くべき耶。
然らば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて印契の上に立て給へる十界互具・百界千如・一念三千を善無畏は盗み取りて我が宗の骨目とせり。彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝の開元四年に来る。如来入滅より一千六百六十四年歟。開皇十七年より百二十余年也。何ぞ百二十余年已前に天台之立て給へる一念三千の法門を盗み取りて我が物とする耶。而るに己が依経たる大日経には、衆生の中に機を簡び、前四味の諸経に同じて二乗を簡べり。まして草木成仏は思ひよらず。されば理を云ふ時は盗人也。
又、印契・真言、何れの経にか之を簡べる。若し爾らば、大日経に之を説くとも規模ならず。一代に簡ばれ、諸経に捨てらる二乗作仏は、法華に限れり。二乗は無量無辺劫の間、千二百余尊の印契・真言を行ずとも、法華経に値はずんば成仏すべからず。印は手の用、真言は口の用也。其の主が成仏せざれば、口と手と別に成仏すべき耶。一代に超過し三説に秀でたる二乗の事をば物とせず。事に依る時は印・真言を尊む者、劣謂勝見之外道也。
無量義経説法品に云く_四十余年。未顕真実〔四十余年には未だ真実を顕さず〕文。一の巻に云く_世尊法久後 要当説真実〔世尊は法久しゅうして後 要ず当に真実を説きたもうべし〕文。又云く_一大事因縁故。出現於世。〔一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう〕。四の巻に云く_薬王今告汝我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕文。又云く_已説。今説。当説〔已に説き今説き当に説かん〕文。宝塔品に云く_我為仏道 於無量土 従始至今 広説諸経 而於其中 此経第一〔我仏道を為て 無量の土に於て 始より今に至るまで 広く諸経を説く 而も其の中に於て 此の経第一なり〕文。安楽行品に云く_此法華経。是諸如来。第一之説。於諸説中。最為甚深〔此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり〕文。又云く_此法華経。諸仏如来。秘密之蔵。於諸経中。最在其上〔文殊師利、此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり〕文。薬王品に云く_此法華経。亦復如是。於諸経中。最為其上〔此の法華経も亦復是の如し。諸経の中に於て最も為れ其の上なり〕文。又云く_此経亦復如是。於衆経中。最為其尊〔此の経も亦復是の如し。衆経の中に於て最も為れ其の尊なり〕文。又云く_此経亦復如是。諸経中王〔此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり〕文。又云く_此経亦復如是。一切如来所説。若菩薩所説。若声聞所説。諸経法中。最為第一〔一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり〕。
玄の十に云く ̄已今当説。最為難信難解。前経是已説随他意〔已今当説 最為難信難解。前の経は、是れ已に他意に随て説く〕文。秀句の下に云く ̄謹案法華経法師品偈云 薬王今告汝 我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔謹んで案ずるに、法華経法師品の偈に云く 薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕文。又云く ̄当知已説四時経〔当に知るべし、已説は四時の経なり〕文。文句の八に云く ̄今法華。論法<論法一切差別融通帰一法。〔今、法華は、法を論ずれば〕。記の八に云く ̄当鉾<当鋒難事法華已前>〔鉾に当たる〕云云。又云く ̄明知他宗所依経。不是王中王〔明らかに知んぬ。他宗所依の経は、是れ王の中の王ならず〕云云。
釈迦・多宝・十方之諸仏、天台・妙楽・伝教等は法華経は真実、華厳は方便也。未顕真実 正直捨方便 不受余経一偈 若人不信 乃至 其人命終 入阿鼻獄と云云。弘法大師は法華は戯論、華厳は真実なりと云云。何れを用ふべき耶。-
宝鑰に云く ̄如此乗乗自乗得名望後作戯論〔此の如き乗々自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す〕文。又云く ̄謗人謗法定堕阿鼻獄〔謗人、謗法は定めて阿鼻獄に堕せん〕文。
記の五に云く ̄是則戯論非求法也。故実相外皆名戯論〔故に実相の外は、皆、戯論と名づく〕文。梵網経疏に云く ̄第十謗三宝戒。亦云謗菩薩法戒。或云邪見邪説戒。謗法是乖背之名。【糸+圭】是解不称理。言不当実。異解説者。皆名為謗也〔第十謗三宝戒。亦は謗菩薩戒と云ひ、或は邪見と云ふ。謗は是れ乖背の名なり。すべて是の解り、理に称はず。言は実に当たらずして、異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり〕文。
玄の三に云く ̄無文証者悉是邪。偽同彼外道<謂同彼外道非二諦摂也>〔文証無くば悉く是れ邪まなり。偽りは彼の外道と同じ〕
弘の十に云く ̄今人信他所引経論。謂為有憑。不尋宗源謬誤何甚〔今の人、他の所引の経論を信じて、謂て憑み有りと為す。宗の源を尋ねざれば、謬誤、何ぞ甚だし〕。
守護章上之中に云く ̄若有所説経論明文権実・大小・偏円・半満可簡択〔若し所説の経論の明文有らば、権実・大小・偏円・半満を簡択すべし〕文。
玄の三に云く ̄広引経論荘厳己義〔広く経論を引きて己の義を荘厳す〕。文。
抑そも弘法之法華経は真言より三重の劣、戯論之法にして尚ほ華厳にも劣ると云ふ事。
大日経六巻に供養法の巻を加へて七巻三十一品、或は三十六本には、何れの品、何れの巻に見えたる耶。加之、蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品、或一巻に全く見えざる也。又、大日経並びに三部之秘経には何れの巻、何れの品にか十界互具、之有り耶。都て無き也。法華経には事理共に有る也。所謂、久遠実成は事也。二乗作仏は理也。善無畏等之理同事勝は臆説也。信用すべからざる者也。
凡そ真言之誤り多き中に、一 十住心に第八法華・第九華厳・第十真言云云。何れの経論に出でたる耶。一 善無畏之四句と弘法の十住心とは眼前の違目也。何ぞ師弟敵対する耶。一 五時を立つる時、六波羅蜜経の陀羅尼蔵を何ぞ必ず我が家の真言と云ふべき耶。一 震丹の人師、争でか醍醐を盗むといふ。年紀、何ぞ相違する耶。
其の故は開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰の歳に至るまで百九十二年也。何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経之醍醐を盗み給ふべき耶。顕然の違目也。若し爾れば、謗人謗法定堕阿鼻獄は自責なる耶。一 弘法の心経の秘鍵の五分に何ぞ法華を摂する耶。能く能く尋ぬべき事也。-
真言七重難。
一 真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。若し爾れば大日の出世成道説法利生は釈尊より前歟、後歟、如何。対機説法の仏は八相作仏す。父母は誰ぞ。名字は如何。娑婆世界之仏と云はば、世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判也。涅槃経の三十五の巻を見るべし。若し他土の仏也と云はば、何ぞ我が主師親の釈尊を蔑ろにして他方疎遠の仏を崇むるや。不忠也。不孝也。逆路伽耶陀也。若し一体と云はば何ぞ別仏と云ふ耶。若し別仏ならば何ぞ我が重恩之仏を捨つる耶。唐尭は老い衰へたる母を敬ひ虞舜は頑ななる父を崇む是れ一
六波羅蜜経に云く_所謂過去無量【歹+克】伽沙諸仏世尊所説正法 我今亦当作如是説。所謂八万四千諸妙法蘊 而令阿難陀等の諸大弟子一聞於耳皆悉憶持〔所謂、過去無量【歹+克】伽沙の諸仏世尊の所説の正法、我今亦当に是の如き説を作すべし。所謂、八万四千の諸の妙法蘊、しかも阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞きて皆悉く憶持せしむ〕。此の中の陀羅尼蔵を弘法我真言と云へる。若し爾れば、此の陀羅尼蔵は釈迦之説に非ざる歟。此の説に違すべし是れ二
凡そ法華経は無量千万億の已説今説当説に最第一也。諸仏の所説、菩薩の所説、声聞の所説に此の経第一也。諸仏の中に大日、漏るべき耶。法華経は正直無上道の説。大日等の諸仏、長舌を梵天に付けて真実と示し給ふ。
威儀形色経に、身相黄金色にして常に満月輪に遊び、定慧智拳の印、法華経を証誠すと。又、五仏章之仏も法華経第一と見えたり是れ四。
要を以て之を言はば、以要言之。如来一切。所有之法 乃至 皆於此経。宣示顕説〔要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法 乃至 皆此の経に於て宣示顕説す〕云云。此等の経文は釈迦諸説の諸経の中に第一なるのみに非ず、三世の諸仏の諸説の中に第一也。此の外一仏二仏之経の中に法華経に勝れたる経有りと言はば不可用〔用ふべからず〕。法華経は三世不壊之経なる故也是れ五。
又大日経等の諸経之中に法華経に勝るゝ〔勝法華経〕経文無之〔之無し〕是れ六
釈尊御入滅より已後、天竺の論師二十四人之付法蔵、其の外大権之垂迹、震旦之人師、南三北七之十師、三論・法相之先師之中に、天台宗より外に十界互具百界千如一念三千と談ずる人無之〔之無し〕。若不立一念三千者〔若し一念三千を立てざれば〕、性悪の義無之〔之無し〕。無性悪義者〔性悪の義無くば〕、仏菩薩之普賢色身、真言両界之漫荼羅五百七百の諸尊は、同本無今有外道之法〔本無今有の外道之法に同ぜん〕歟。若立十界互具百界千如〔若し十界互具百界千如を立てば〕、本経何れの経にか十界皆成之旨、説之耶〔之を説けるや〕。天台円宗見聞之後、邪知荘厳の為に盗み取れる法門也。才芸を誦し浮言を吐くには不可依〔依るべからず〕。正しき経文金言を可尋〔尋ぬべき〕也。是れ七
涅槃経の三十五に云く_我於処処経中説言 一人出世多人利益。一国土中二転輪王。一世界中二仏出世 無有是処〔我処処の経の中に於て説て言く 一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり。一世界の中に二仏出世すといはゞ、是のことはり有ること無し〕文。大論の九に云く ̄十方恒河沙三千大千世界名為一仏世界。是中更無余仏。実一釈迦牟尼仏〔十方恒河沙三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実には一りの釈迦牟尼仏なり〕文。記の一に云く ̄世無二仏国無二主。一仏境界無二尊号〔世には二仏無く国には二主無し。一仏の境界には二尊の号無しと〕文。持地論に云く ̄世無二仏国無二種一仏境界無二尊号〔世に二仏無く国に二種無く一仏の境界に二尊の号無し〕文。
七月 日 蓮花押
問ふ 真言亡国とは、証文何れの経論に出でたる耶。
答ふ 法華誹謗、正法向背の故也。
問ふ 亡国の証文、之無くば、云何に信ずべき耶。
答ふ 謗法之段は勿論なる歟。若し謗法ならば亡国・堕獄、疑ひ無し。凡そ謗法とは、謗仏謗僧也。三宝一体なる故也。是れ涅槃経の文也。爰を以て法華経には則断一切 世間仏種〔則ち一切世間の 仏種を断ぜん〕と説く。是れを即ち一闡提と名づく。涅槃経の一と十と十一とを委細に見るべき也。
罪に軽重有れば、獄に浅深を構へたり。殺生・偸盗等、乃至一大三千世界の衆生を殺害すれども、等活・黒縄等の上、七大地獄之因として無間に堕ちる事は都て無し。阿鼻の業因は、経論の掟は五逆・七逆・因果撥無・正法・誹謗の者也。但し五逆之中に一逆を犯す者は無間に堕すと雖も、一中劫を経て罪を尽くして浮かぶ。一戒をも犯さず道心堅固にして後世を願ふと雖も、法華に背きぬれば無間に堕して展転無数劫と見えたり。然れば則ち謗法は無量の五逆に過ぎたり。是れを以て国家を祈らんに天下将に泰平なるべしや。諸法は現量に如かず。-
承久の兵乱之時、関東には其の用意もなし。国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰ぎて十五壇之秘法を行はる。其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行はる。七日に満せし日、京方〈かみがた〉負け畢んぬ。亡国之現証に非ず乎。是れは僅かに今生之小事也。権教邪法に仍て悪道に堕せん事、浅猿〈あさまし〉かるべし。
問ふ 権教邪執之証文は如何。既に真言教は大日覚王の秘法、即身成仏の奥蔵也。故に上下一同に是の法に帰し、天下悉く大法を仰ぐ。海内を静め天下を治むる事、偏に真言之力也。然るを権教邪法と云ふ事、如何。
答ふ 権教と云ふ事。四教含蔵、帯方便之説なる経文顕然なれば也。然らば四味の諸経に同じて久遠を隠し二乗を隔つ。況んや尽形寿の戒等を述ぶれば小乗権教なる事、疑ひ無し。爰を以て遣唐の疑問に、禅林寺の広修・国清寺の維鑰之決判、分明に方等部之摂と云ひし也。
疑て云く 経文の権教は且く之を置く。唐決之事は、天台の先徳円珍大師、之を破す。大日経の旨帰に ̄法華尚不及 況自余教乎〔法華尚及ばず、況や自余の教をや〕云云。既に祖師の所判也。誰か之に背くべき耶。
決して云く 道理、前の如し。依法不依人之意也。但し此の釈を智証の釈と云ふ事、不審也。其の故は授決集の下に云く ̄若望華厳・法華・涅槃等経是摂引門〔若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門なり〕と云へり。広修・維鑰を破する時は法華尚不及と書き、授決集には是摂引門と云ひて、二義相違せり。旨帰が円珍之作ならば、授決集は智証の釈に非ず。授決集が実作ならば、旨帰は智証之釈に非ず。授決集が智証之釈と云ふ事、天下之人、皆、之を知る上、公家の日記にも之を載せり。旨帰は人多く之を知らず。公家の日記にも之無し。此を以て彼を思ふに後の人作りて智証の釈と号する歟。能く能く尋ぬべき也。
授決集は正しき智証の自筆也。密家に四句の五蔵を設けて十住心を立て論を引き、伝を三国に寄せ、家々の日記と号し、我が宗を厳るとも、皆是れ妄語、胸臆之浮言にして、荘厳己義之法門也。
所詮、法華経は大日経より三重の劣、戯論之法にして、釈尊は無明纏縛之仏と云ふ事、慥かなる如来之金言経文を尋ぬべし。証文無くんば何と云ふとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家之肝心也。返す返す忘失する事勿れ。
何れの宗にも正法誹謗之失、之有り。対論之時は、但此の一段に在り。仏法は自他宗異なりと雖も、翫ぶ本意は、道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為也。謗法に成り伏して悪道に堕すべくは、文殊の智慧・富楼那の弁説、一分も無益也。無間に堕する程の邪法の行人にて国家を祈祷せんに将た善事と為すべき耶。顕密対判之釈は且く之を置く。華厳に法華劣ると云ふ事能く能く思惟すべき也。-
華厳経の十二に云く四十華厳也_又彼所修一切功徳六分之一常属於王。如是障修及造不善所有罪業六分之一還属於王〔また彼の所修の一切功徳の六分の一は常に王に属す。是の如く修および造を障る不善所有の罪業の六分の一は還りて王に属す〕文。
六波羅蜜経の六に云く_若王境内有犯殺者其王便獲第六分罪。偸盗・邪行及以妄語亦復如是。何以故 若法非法王為根本。於罪於福第六一分皆属於王〔若し王の境内に殺を犯す者あれば、其の王すなわち第六分の罪を獲ん。偸盗・邪行および妄語も、またまた是の如し。何を以ての故に。若しは、法も非法も王を根本と為す。罪に於ても福に於ても第六の一分は皆王に属するなり〕云云。
最勝王経に云く_由愛敬悪人治罰善人故 他方怨賊来国人遭喪乱〔悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来りて国人喪乱に遭ふ〕等云云。大集経に云く_若復有諸刹利国王作諸非法 悩乱世尊声聞弟子 若以毀罵刀杖打斫及奪衣鉢種種資具 若他給施作留難者我等令彼自然卒起他方怨敵 及自国土亦令兵起病疫飢饉非時風雨闘諍言訟。又令其王不久復当亡失己国〔若しは復諸の刹利国王有て諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪ひ、若しは他の給施せんに留難を作さば我等彼をして自然に他方の怨敵を卒起せしめん、及び自の国土にも亦兵起り病疫飢饉し非時の風雨闘諍言訟せしめん。又其王をして久しからざらしめ復当に己が国を亡失す〕云云。
大三界義に云く_爾時諸人共聚衆内立一有徳之人名為田主 而各以所収之物六分之一以貢輪田主。以一人為主以政法治之。因茲以後立刹利種大衆欽仰恩流率土。復名大三末多王〔爾の時に諸人共にあつまりて衆の内に一の有徳の人を立てて、名づけて田主と為し、而しておのおの所収の物、六分の一を以て、以て田主に貢輪す。一人を以て主と為し、政法を以て之を治む。茲に因て、以後、刹利種を立て、大衆、欽仰して恩を率土に流す。また大三末多王〈たいさんまたおう〉と名づく〕已上、倶舎に依て之を出す也
顕密の事
無量義経十功徳品に云く 第四功徳の下深入諸仏。秘密之法。所可演説。無違無失〔深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく〕。
抑そも大日之三部を密教と云ひ、法華経を顕教と云ふ事、金言、出だす所を知らず。所詮、真言を密と云ふは、是の密は隠密之密なる歟、微密之密なる歟。物を秘するに二種有り。一には金銀等を蔵に籠むるは微密也。二には錙片輪等を隠すは隠密也。ー
然れば則ち真言を密と云ふは隠密也。其の故は始成と説く故に長寿を隠し、二乗を隔つる故に記小無し。此の二つは教法之心膸、文義之綱骨也。微密之密は法華也。
然れば則ち文に云く 四巻法師品に云く_薬王。此経是諸仏。秘要之蔵〔薬王此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり〕云云。五巻安楽行品に云く_文殊師利。此法華経。諸仏如来。秘密之蔵。於諸経中。最在其上〔文殊師利、此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり〕云云。寿量品に云く_如来秘密。神通之力〔如来の秘密・神通の力を〕云云。如来神力品に云く_如来一切。秘要之蔵〔如来の一切の秘要の蔵〕云云。
加之、真言の高祖、龍樹菩薩、法華経を秘密と名づく。二乗作仏有るが故にと釈せり。次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず。所以は何ん。大日経に云く_仏説不思議真言相道法。不共一切声聞・縁覚。亦非世尊普為一切衆生〔仏、不思議真言の相・道・法を説きて一切の証文縁覚を共にせず。また、世尊普く一切衆生の為にするに非ず〕云云。二乗を隔つる事、前四味之諸教に同じ。随て唐決には方等部の摂と判ず。経文には四教含蔵と見えたり。
大論第百巻に云く ̄第九十品の釈問曰。更有何法甚深勝般若者。而以般若嘱累阿難。而余経嘱累菩薩。答曰。般若波羅蜜非秘密法。而法華等諸経。説阿羅漢受決作仏。大菩薩能受用。譬如大薬師能以毒為薬。〔問て云く 更に何れの法か甚深にして般若に勝れたる者有りて、而も般若を以て阿難に嘱累し、而も余経をば菩薩に嘱累するや。答て曰く 般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に。阿羅漢の受決作仏を説きて、大菩薩、能く受用す。譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し〕云云。
玄義の六に云く ̄譬如良医。能変毒為薬。二乗根敗不能反復。名之為毒。今経得記。即是変毒為薬。故論云。余経非秘密。法華為秘密也。復有本地所説諸経所無。在後当広明云云〔譬へば良医の能く毒を変じて薬と為すが如し。二乗の根敗、反復すること能はず。之を名づけて毒と為す。今経に記を得るは、即ち是れ、毒を変じて薬と為す。故に論に云く 余経は秘密に非ず。法華を秘密と為すなり。また本地所説の有り。諸経に無き所なり。後に在りて当に広く明かす〕云云。-
籤の六に云く ̄第四引証中言論云等者。大論文証也。言秘密者。非八教中之秘密。但是前所未説為秘。開已無外為蜜。次復有下。本門。言在後者。指第七巻。〔第四に引証の中、論云等と言ふは、大論の文証なり。秘密と言ふは、八教の中の秘密には非ず。ただ是れ前に未だ説かざる所を秘と為し、開き已れば外無きを蜜と為す〕文
文句の八に云く ̄方等・般若雖説実相之蔵。亦未説五乗作仏。亦未発迹顕本。頓漸諸経皆未融会。故名為秘〔方等・般若に実相の蔵を説くと雖も、また未だ五乗の作仏を説かず。また未だ発迹顕本せず。頓漸の諸経は、皆、未だ融会せず。故に名づけて秘と為す〕。文
記の八に云く ̄大論云 法華是秘密付諸菩薩。如今下文召於下方 尚待本眷属。験余未堪〔大論に云く 法華は是れ秘密にして諸の菩薩に付す、と。今下の文に下方を召すが如きは、尚お本眷属を待つ。あきらけし、余は未だ堪へず〕。秀句の下に龍女之成仏を釈して身・口密なりと云へり云云。
此れ等之経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き、秘密教と定め給へるを、経論に文証も無き妄語を吐き、法華を顕教と名づけて之を下し、之を謗ず。豈に大謗法に非ずや。
抑そも唐朝之善無畏・金剛智等、法華経と大日経の両経に理同事勝之釈を作るは梵華両国共に勝劣歟。法華経も天竺には十六里之宝蔵に有れば無量の事有れども、流沙葱嶺等の険難、五万八千里十万里之路次、容易ならざる間、枝葉は之を略せり。此れ等は訳者之意楽に随ふ。広を好み略を悪む人も有り。略を好み広を悪む人も有り。然れば則ち玄奘は広を好み四十巻之般若経を六百巻に成し、羅什三蔵は略を好みて千巻之大論を百巻に縮めたり。印契・真言之勝るると云ふ事、是れを以て弁へ難し。羅什所訳の法華経には是れを宗とせず。不空三蔵の法華儀軌には印・真言、之れ有り。仁王経も羅什の所訳には印・真言、之無し。不空所訳之経には之を副えたり。是れを知んぬ、訳者の意楽也と。
其の上、法華経には為説実相印と説きて合掌の印、之れ有り。譬諭品には_我此法印 為欲利益 世間故説〔我が此の法印は 世間を利益せんと 欲するを為ての故に説く〕云云。此れ等の文、如何。只広略の異なる歟。又、舌相の言語、皆是れ真言也。法華経には ̄治生産業皆与実相不相違背〔一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず〕と宣べ、亦是前仏<亦是先仏>。経中所説〔亦是れ前の仏経の中に説く所なり〕と説く。此れ等は如何。真言こそ有名無実之真言、未顕真実之権教なれば、成仏得道、跡形も無し。始成を談じて久遠無ければ、性徳本有之仏性も無し。三乗が仏の出世を感ずるに三人に二人を捨て、三十人に二十人を除く。皆令入仏道の仏の本願、満足すべからず。十界互具は思ひもよらず。まして非情の上の色心の因果、争でか説くべき耶。
然らば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて印契の上に立て給へる十界互具・百界千如・一念三千を善無畏は盗み取りて我が宗の骨目とせり。彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝の開元四年に来る。如来入滅より一千六百六十四年歟。開皇十七年より百二十余年也。何ぞ百二十余年已前に天台之立て給へる一念三千の法門を盗み取りて我が物とする耶。而るに己が依経たる大日経には、衆生の中に機を簡び、前四味の諸経に同じて二乗を簡べり。まして草木成仏は思ひよらず。されば理を云ふ時は盗人也。
又、印契・真言、何れの経にか之を簡べる。若し爾らば、大日経に之を説くとも規模ならず。一代に簡ばれ、諸経に捨てらる二乗作仏は、法華に限れり。二乗は無量無辺劫の間、千二百余尊の印契・真言を行ずとも、法華経に値はずんば成仏すべからず。印は手の用、真言は口の用也。其の主が成仏せざれば、口と手と別に成仏すべき耶。一代に超過し三説に秀でたる二乗の事をば物とせず。事に依る時は印・真言を尊む者、劣謂勝見之外道也。
無量義経説法品に云く_四十余年。未顕真実〔四十余年には未だ真実を顕さず〕文。一の巻に云く_世尊法久後 要当説真実〔世尊は法久しゅうして後 要ず当に真実を説きたもうべし〕文。又云く_一大事因縁故。出現於世。〔一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう〕。四の巻に云く_薬王今告汝我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕文。又云く_已説。今説。当説〔已に説き今説き当に説かん〕文。宝塔品に云く_我為仏道 於無量土 従始至今 広説諸経 而於其中 此経第一〔我仏道を為て 無量の土に於て 始より今に至るまで 広く諸経を説く 而も其の中に於て 此の経第一なり〕文。安楽行品に云く_此法華経。是諸如来。第一之説。於諸説中。最為甚深〔此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり〕文。又云く_此法華経。諸仏如来。秘密之蔵。於諸経中。最在其上〔文殊師利、此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり〕文。薬王品に云く_此法華経。亦復如是。於諸経中。最為其上〔此の法華経も亦復是の如し。諸経の中に於て最も為れ其の上なり〕文。又云く_此経亦復如是。於衆経中。最為其尊〔此の経も亦復是の如し。衆経の中に於て最も為れ其の尊なり〕文。又云く_此経亦復如是。諸経中王〔此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり〕文。又云く_此経亦復如是。一切如来所説。若菩薩所説。若声聞所説。諸経法中。最為第一〔一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり〕。
玄の十に云く ̄已今当説。最為難信難解。前経是已説随他意〔已今当説 最為難信難解。前の経は、是れ已に他意に随て説く〕文。秀句の下に云く ̄謹案法華経法師品偈云 薬王今告汝 我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔謹んで案ずるに、法華経法師品の偈に云く 薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕文。又云く ̄当知已説四時経〔当に知るべし、已説は四時の経なり〕文。文句の八に云く ̄今法華。論法<論法一切差別融通帰一法。〔今、法華は、法を論ずれば〕。記の八に云く ̄当鉾<当鋒難事法華已前>〔鉾に当たる〕云云。又云く ̄明知他宗所依経。不是王中王〔明らかに知んぬ。他宗所依の経は、是れ王の中の王ならず〕云云。
釈迦・多宝・十方之諸仏、天台・妙楽・伝教等は法華経は真実、華厳は方便也。未顕真実 正直捨方便 不受余経一偈 若人不信 乃至 其人命終 入阿鼻獄と云云。弘法大師は法華は戯論、華厳は真実なりと云云。何れを用ふべき耶。-
宝鑰に云く ̄如此乗乗自乗得名望後作戯論〔此の如き乗々自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す〕文。又云く ̄謗人謗法定堕阿鼻獄〔謗人、謗法は定めて阿鼻獄に堕せん〕文。
記の五に云く ̄是則戯論非求法也。故実相外皆名戯論〔故に実相の外は、皆、戯論と名づく〕文。梵網経疏に云く ̄第十謗三宝戒。亦云謗菩薩法戒。或云邪見邪説戒。謗法是乖背之名。【糸+圭】是解不称理。言不当実。異解説者。皆名為謗也〔第十謗三宝戒。亦は謗菩薩戒と云ひ、或は邪見と云ふ。謗は是れ乖背の名なり。すべて是の解り、理に称はず。言は実に当たらずして、異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり〕文。
玄の三に云く ̄無文証者悉是邪。偽同彼外道<謂同彼外道非二諦摂也>〔文証無くば悉く是れ邪まなり。偽りは彼の外道と同じ〕
弘の十に云く ̄今人信他所引経論。謂為有憑。不尋宗源謬誤何甚〔今の人、他の所引の経論を信じて、謂て憑み有りと為す。宗の源を尋ねざれば、謬誤、何ぞ甚だし〕。
守護章上之中に云く ̄若有所説経論明文権実・大小・偏円・半満可簡択〔若し所説の経論の明文有らば、権実・大小・偏円・半満を簡択すべし〕文。
玄の三に云く ̄広引経論荘厳己義〔広く経論を引きて己の義を荘厳す〕。文。
抑そも弘法之法華経は真言より三重の劣、戯論之法にして尚ほ華厳にも劣ると云ふ事。
大日経六巻に供養法の巻を加へて七巻三十一品、或は三十六本には、何れの品、何れの巻に見えたる耶。加之、蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品、或一巻に全く見えざる也。又、大日経並びに三部之秘経には何れの巻、何れの品にか十界互具、之有り耶。都て無き也。法華経には事理共に有る也。所謂、久遠実成は事也。二乗作仏は理也。善無畏等之理同事勝は臆説也。信用すべからざる者也。
凡そ真言之誤り多き中に、一 十住心に第八法華・第九華厳・第十真言云云。何れの経論に出でたる耶。一 善無畏之四句と弘法の十住心とは眼前の違目也。何ぞ師弟敵対する耶。一 五時を立つる時、六波羅蜜経の陀羅尼蔵を何ぞ必ず我が家の真言と云ふべき耶。一 震丹の人師、争でか醍醐を盗むといふ。年紀、何ぞ相違する耶。
其の故は開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰の歳に至るまで百九十二年也。何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経之醍醐を盗み給ふべき耶。顕然の違目也。若し爾れば、謗人謗法定堕阿鼻獄は自責なる耶。一 弘法の心経の秘鍵の五分に何ぞ法華を摂する耶。能く能く尋ぬべき事也。-
真言七重難。
一 真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。若し爾れば大日の出世成道説法利生は釈尊より前歟、後歟、如何。対機説法の仏は八相作仏す。父母は誰ぞ。名字は如何。娑婆世界之仏と云はば、世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判也。涅槃経の三十五の巻を見るべし。若し他土の仏也と云はば、何ぞ我が主師親の釈尊を蔑ろにして他方疎遠の仏を崇むるや。不忠也。不孝也。逆路伽耶陀也。若し一体と云はば何ぞ別仏と云ふ耶。若し別仏ならば何ぞ我が重恩之仏を捨つる耶。唐尭は老い衰へたる母を敬ひ虞舜は頑ななる父を崇む是れ一
六波羅蜜経に云く_所謂過去無量【歹+克】伽沙諸仏世尊所説正法 我今亦当作如是説。所謂八万四千諸妙法蘊 而令阿難陀等の諸大弟子一聞於耳皆悉憶持〔所謂、過去無量【歹+克】伽沙の諸仏世尊の所説の正法、我今亦当に是の如き説を作すべし。所謂、八万四千の諸の妙法蘊、しかも阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞きて皆悉く憶持せしむ〕。此の中の陀羅尼蔵を弘法我真言と云へる。若し爾れば、此の陀羅尼蔵は釈迦之説に非ざる歟。此の説に違すべし是れ二
凡そ法華経は無量千万億の已説今説当説に最第一也。諸仏の所説、菩薩の所説、声聞の所説に此の経第一也。諸仏の中に大日、漏るべき耶。法華経は正直無上道の説。大日等の諸仏、長舌を梵天に付けて真実と示し給ふ。
威儀形色経に、身相黄金色にして常に満月輪に遊び、定慧智拳の印、法華経を証誠すと。又、五仏章之仏も法華経第一と見えたり是れ四。
要を以て之を言はば、以要言之。如来一切。所有之法 乃至 皆於此経。宣示顕説〔要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法 乃至 皆此の経に於て宣示顕説す〕云云。此等の経文は釈迦諸説の諸経の中に第一なるのみに非ず、三世の諸仏の諸説の中に第一也。此の外一仏二仏之経の中に法華経に勝れたる経有りと言はば不可用〔用ふべからず〕。法華経は三世不壊之経なる故也是れ五。
又大日経等の諸経之中に法華経に勝るゝ〔勝法華経〕経文無之〔之無し〕是れ六
釈尊御入滅より已後、天竺の論師二十四人之付法蔵、其の外大権之垂迹、震旦之人師、南三北七之十師、三論・法相之先師之中に、天台宗より外に十界互具百界千如一念三千と談ずる人無之〔之無し〕。若不立一念三千者〔若し一念三千を立てざれば〕、性悪の義無之〔之無し〕。無性悪義者〔性悪の義無くば〕、仏菩薩之普賢色身、真言両界之漫荼羅五百七百の諸尊は、同本無今有外道之法〔本無今有の外道之法に同ぜん〕歟。若立十界互具百界千如〔若し十界互具百界千如を立てば〕、本経何れの経にか十界皆成之旨、説之耶〔之を説けるや〕。天台円宗見聞之後、邪知荘厳の為に盗み取れる法門也。才芸を誦し浮言を吐くには不可依〔依るべからず〕。正しき経文金言を可尋〔尋ぬべき〕也。是れ七
涅槃経の三十五に云く_我於処処経中説言 一人出世多人利益。一国土中二転輪王。一世界中二仏出世 無有是処〔我処処の経の中に於て説て言く 一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり。一世界の中に二仏出世すといはゞ、是のことはり有ること無し〕文。大論の九に云く ̄十方恒河沙三千大千世界名為一仏世界。是中更無余仏。実一釈迦牟尼仏〔十方恒河沙三千大千世界を名づけて一仏世界と為す。是の中に更に余仏無し。実には一りの釈迦牟尼仏なり〕文。記の一に云く ̄世無二仏国無二主。一仏境界無二尊号〔世には二仏無く国には二主無し。一仏の境界には二尊の号無しと〕文。持地論に云く ̄世無二仏国無二種一仏境界無二尊号〔世に二仏無く国に二種無く一仏の境界に二尊の号無し〕文。
七月 日 蓮花押
真言は国を亡ぼす悪法(4)
真言天台勝劣事 文永七年
問ふ 何なる経論に依て真言宗を立つる耶。
答ふ 大日経・金剛頂経・蘇悉地経、並びに菩提心論。此の三経一論に依て真言宗を立つる也。
問ふ 大日経と法華経と何れか勝れたる耶。
答ふ 法華経は或は七重、或は八重の勝也。大日経は七八重劣也。
難じて云く 古より今に至るまで、法華より真言劣れると云ふ義、都て之無し。之に依て弘法大師は十住心を立てゝ法華は真言より三重の劣と解釈し給へり。覚鑁〈かくばん〉は法華は真言の履取りに及ばずと釈せり。打ち任せては密教勝れ顕教劣る也と世挙って此れを許す。七重の劣と云ふ義は甚だ珍しき者をや。
答ふ 真言は七重の劣と云ふ事珍しき義也と驚かるゝは理也。所以に法師品に云く_已説。今説。当説。而於其中。此法華経。最為難信難解〔已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり〕云云。又云く_於諸経中。最在其上〔諸経の中に於て最も其の上にあり〕云云。此の文のこゝろは、法華は一切経の中に勝れたり此其一
次に無量義経に云く_次説方等。十二部経。摩訶般若。華厳海空〔初め四諦を説いて 乃至 次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて〕云云。又云く_真実甚深。甚深甚深〔真実甚深甚深甚深なり〕云云。此の文の心は、無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶ほ甚深也。然れども法華の序分にして機もいまだなましき(不熟)故に、正説の法華には劣る也此其二。
次に涅槃経九に云く_是経出世如彼果実多所利益安楽一切 能令衆生見於仏性。如法華中八千声聞 得授記雕成大果実 如秋収冬蔵更無所作〔是の経の出世は、彼の果実の一切を利益し安楽する所多きが如く、能く衆生をして仏性を見せしむ。乃至 法華の中の八千の声聞に記雕を授けることを得て大果実成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し〕。云云。→籤の一に云く ̄一家義意謂二部同味然涅槃尚劣〔一家の義意。謂く二部同じ味なれども、然も涅槃、なお劣る〕云云。文の心は涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味。同じ醍醐味なれども涅槃経は尚ほ劣る也。法華経は勝れたりと云へり。涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝れたり此其三。
次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり此其四。
次に蘇悉地経に云く_猶不成者或腹転読大般若経七返〔なお成ぜざる者は、或はまた大般若経を七遍転読すること〕云云。此の文の心は大般若経は華厳経に劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり此其五。
次に蘇悉地経に云く_於三部中 此経為王〔三部の中に於て此の経を王と為す〕云云。此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経・金剛頂経には勝ると勝ると見えたり。此其六
此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申す也。法華本門に望むれば八重の劣とも申す也。
次に弘法大師の十住心を立てゝ法華は三重劣ると云ふ事は、安然の教時義と云ふ文に十住心の立て様を破して云く 五つの失有り。謂く 一には大日経の義釈に違する失。二には金剛頂経に違する失。三には守護経に違する失。四には菩提心論に違する失。五には衆師に違する失也。此の五つの失を陳ずる事無くしてつまり給へり。然る間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが、大なる僻事也。謗法に成りぬと覚ゆ。
次に覚鑁の法華は真言の履取りに及ばずと舎利講の式に書かれたるは下に任せたる言也。証拠無き故に謗法なるべし。
次に世を挙げて密教勝れ、顕教劣ると、此れを云ふ事、是れ偏に弘法を信じて法を信ぜざる也。所以に弘法をば安然和尚、五失有りと云ひて、用ひざる時は世間の人は何様に密教勝ると思ふべき。抑そも密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや。是れ又、証拠無き事を世を挙げて申す也。
猶ほ難じて云く 大日経等は是れ中央大日法身、無始無終の如来、法界宮、或は色究竟天、他化自在天にして、菩薩の為に真言を説き給へり。法華は釈迦応身、霊山にして二乗の為に説き給へり。或は釈迦は大日の化身也とも云へり。成道の時は、大日の印可を蒙りて、鞳字の観を教へられ、後夜に仏になる也。大日如来だにもましまさずば、争でか釈迦仏母仏に成り給ふべき。此等の道理を以て案ずるに、法華より真言勝れたる事は、云ふに及ばず也。
答て云く 依法不依人の故に、いかやうにも経説のやうに依るべき也。大日経は釈迦の大日となて説き給へる経也。故に金光明最勝王経の第一には中央釈迦牟尼と云へり。又、金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云ふべし。大日の説とも云ふべし。又、鐐盧遮那と云ふは天竺の語、大日と云ふは此土の語也。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云ふ時は大日は釈迦の異名也。加之、旧訳の経に盧舎那と云ふをば、新訳の経には毘盧遮那と云ふ。然る間、新訳の経の毘盧遮那法身と云ふは、九や金剛頂経の経の毘遮那多受用身也。故に大日法身と云ふは法華経の自受用報身にも及ばず。況んや法華経の法身如来にはまして及ぶべからず。法華経の自受用法身とは真言には分絶えて知らず也。法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるゝ也。随て華厳経の新訳の仏とは意得べきや。-
次に大日は只是れ釈迦の異名也。なにしに別の仏とは意得べきや。
次の法身の説法と云ふ事、何れの経の説ぞや。弘法大師の二教論には楞伽経に依て法身の説法を立て給へり。其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、未顕真実の権教也。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。此の上に法は定めて説かず、報はに義に通ずるの二身の有るをば一向知らず也。故に大日法身の説法と云ふは定めて法華の他受用身に当る也。
次に大日無始無終と云ふ事、既に_我昔坐道場 降伏於四魔〔我昔道場に坐して、四魔を降伏す〕とも宣べ、又、降伏四魔解脱六趣満足一切智智之明〔四魔を降伏し六種を解脱し、一切智智の明を満足す〕等云云。此れ等の文は大日は始めて四魔を降伏して、始めて仏に成るとこそ見えたれ。全く無始の仏とは見えず。又、仏に成りて何程を経ると説かざる事は権教の故也。実経にこそ五百塵点等をも説きたれ。
次に法界宮とは、色究竟天歟。又、何の処ぞや。色究竟天、或は他化自在天は法華天台宗には別教の仏の説処と云ひていみじからぬ事に申す也。又、為菩薩説〔菩薩の為に説く〕とも高名もなし。例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚ほ法華の方便とこそ云はるれ。只、仏出世の本意は仏に成り難き二乗の、仏に為るを一大事とし給へり。
されば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ、二乗作仏を説かざるを顕教と云へり。此の趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨無きが故に還りて顕教と云ひ、法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云ふべき也。随て諸仏秘密之蔵と説けば子細無し。世間の人、密教勝ると云ふはいかやうに意得たる耶。但し若し顕教に於て修行する者は久しく三大無数劫を経ると云ふ故に、是れ、三蔵四阿含経を指して顕教と云ひて、権大乗までは云はず。況んや法華実大乗までは都て云はず也。
次に釈迦は大日の化身、鞳字を教へられてこそ仏には成りたれと云ふ事。此れは偏に六波羅蜜経の説也。彼の経一部十巻は此れ釈迦の説也。大日の説には非ず。是れ未顕真実の権教也。随て成道の相も三蔵教の教主の相也。六年苦行の後の儀式なるをや。彼の経説の五味を天台は盗み取りて己が宗に立つると云ふ無実を云ひ付けらるゝ弘法大師の大なる僻事也。所以に天台は涅槃経に依て立て給へり。全く六波羅蜜経には依らず。況んや天台死去の後、百九十年あて貞元四年に渡れる経也。何として天台は見給ふべき。不実の過、弘法大師にあり。およそ彼の経説は未顕真実也。之を以て法華経を下さん事甚だ荒量也。
猶ほ難じて云く 如何に云ふとも印・真言・三摩耶尊形を説く事は大日経程法華経には之無し。事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり。其の上、真言の三部経は釈迦一代五時の摂属に非ず。されば弘法大師の宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として法華は無明の辺域、戯論の法と釈し給へり。爰を以て法華劣り真言勝ると申す也。
答ふ 凡そ印相・尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず。設ひ之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし。所以に阿含経等にも印相有るが故に、必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず。説くまじければ是れを説かぬにこそ有れ。法華は只三世十方の仏の本意を説きて、其の形がとある、かうあるとは云ふべからず。例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣るとは云ふべからざるが如し。
次に事理倶密の事。法華は理秘密、真言は事理倶密なれば勝るゝとは何れの経に説かるや。抑そも法華の理秘密とは、何様の事ぞや。法華の理とは迹門開権顕実の理過。其の理は真言には分絶えて知らざる理也。法華の事とは又、久遠実成の事也。此の事又真言になし。真言に云ふ所の事理は未開会の権教の事理也。何ぞ法華に勝るべき乎。
次に一代五時の摂属に非ずと云ふ事。是れ往古より諍ひ也。唐決には四教有るが故に方等部に摂すと云へり。教時義には、一切智智一味の開会を説くが故に、法華の摂と云へり。二義の中に方等の摂と云ふは吉義也。所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云ふ事、甚だいはれなし。彼は法開会の文にして、全く人開会なし。争でか法華の摂と云はるべき。法開会の文は、方等・般若にも盛んに談ずれども、法華に等しき事なし。彼の大日経の始終を見るに、四教の旨具さにあり。尤も方等の摂と云ふべし。所以に開権顕実の旨、有らざれば法華と云ふまじ。一向小乗三蔵の義無ければ阿含部とも云ふべからず。般若畢竟空を説かねば般若部とも云ふべからず。大小四教の旨を説くが故に方等部と云はずんば何れの部とか云はん。又一代五時を離れて外に仏法有りと云ふべからず。若し有らば二仏並出の失あらん。又、其の法を釈迦統領の国土にきたして弘むべからず。
次に弘法大師、釈摩訶衍論を証拠と為して法華を無明の辺域、戯論の法と云ふ事、是れ以ての外の事也。釈摩訶衍論とは、龍樹菩薩の造也。是れは釈迦如来の御弟子也。争でか弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押し下ろして戯論の法等と云ふべき耶。而も論に其の明文無し。随て彼の論の法門は別教の法門也。権教の法門也。是れ円教に及ばず。又実教に非ず。何してか法華を下すべき。其の上、彼の論に幾ばくの経をか引くらん。されども法華経を引く事は都て之無し。権論の故也。地体、弘法大師の華厳より法華を下されたるは遥かに仏意にはくひ違ひたる心地也。用ふべからず、用ふべからず。
日 蓮花押
問ふ 何なる経論に依て真言宗を立つる耶。
答ふ 大日経・金剛頂経・蘇悉地経、並びに菩提心論。此の三経一論に依て真言宗を立つる也。
問ふ 大日経と法華経と何れか勝れたる耶。
答ふ 法華経は或は七重、或は八重の勝也。大日経は七八重劣也。
難じて云く 古より今に至るまで、法華より真言劣れると云ふ義、都て之無し。之に依て弘法大師は十住心を立てゝ法華は真言より三重の劣と解釈し給へり。覚鑁〈かくばん〉は法華は真言の履取りに及ばずと釈せり。打ち任せては密教勝れ顕教劣る也と世挙って此れを許す。七重の劣と云ふ義は甚だ珍しき者をや。
答ふ 真言は七重の劣と云ふ事珍しき義也と驚かるゝは理也。所以に法師品に云く_已説。今説。当説。而於其中。此法華経。最為難信難解〔已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり〕云云。又云く_於諸経中。最在其上〔諸経の中に於て最も其の上にあり〕云云。此の文のこゝろは、法華は一切経の中に勝れたり此其一
次に無量義経に云く_次説方等。十二部経。摩訶般若。華厳海空〔初め四諦を説いて 乃至 次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて〕云云。又云く_真実甚深。甚深甚深〔真実甚深甚深甚深なり〕云云。此の文の心は、無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶ほ甚深也。然れども法華の序分にして機もいまだなましき(不熟)故に、正説の法華には劣る也此其二。
次に涅槃経九に云く_是経出世如彼果実多所利益安楽一切 能令衆生見於仏性。如法華中八千声聞 得授記雕成大果実 如秋収冬蔵更無所作〔是の経の出世は、彼の果実の一切を利益し安楽する所多きが如く、能く衆生をして仏性を見せしむ。乃至 法華の中の八千の声聞に記雕を授けることを得て大果実成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し〕。云云。→籤の一に云く ̄一家義意謂二部同味然涅槃尚劣〔一家の義意。謂く二部同じ味なれども、然も涅槃、なお劣る〕云云。文の心は涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味。同じ醍醐味なれども涅槃経は尚ほ劣る也。法華経は勝れたりと云へり。涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝れたり此其三。
次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり此其四。
次に蘇悉地経に云く_猶不成者或腹転読大般若経七返〔なお成ぜざる者は、或はまた大般若経を七遍転読すること〕云云。此の文の心は大般若経は華厳経に劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり此其五。
次に蘇悉地経に云く_於三部中 此経為王〔三部の中に於て此の経を王と為す〕云云。此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経・金剛頂経には勝ると勝ると見えたり。此其六
此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申す也。法華本門に望むれば八重の劣とも申す也。
次に弘法大師の十住心を立てゝ法華は三重劣ると云ふ事は、安然の教時義と云ふ文に十住心の立て様を破して云く 五つの失有り。謂く 一には大日経の義釈に違する失。二には金剛頂経に違する失。三には守護経に違する失。四には菩提心論に違する失。五には衆師に違する失也。此の五つの失を陳ずる事無くしてつまり給へり。然る間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが、大なる僻事也。謗法に成りぬと覚ゆ。
次に覚鑁の法華は真言の履取りに及ばずと舎利講の式に書かれたるは下に任せたる言也。証拠無き故に謗法なるべし。
次に世を挙げて密教勝れ、顕教劣ると、此れを云ふ事、是れ偏に弘法を信じて法を信ぜざる也。所以に弘法をば安然和尚、五失有りと云ひて、用ひざる時は世間の人は何様に密教勝ると思ふべき。抑そも密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや。是れ又、証拠無き事を世を挙げて申す也。
猶ほ難じて云く 大日経等は是れ中央大日法身、無始無終の如来、法界宮、或は色究竟天、他化自在天にして、菩薩の為に真言を説き給へり。法華は釈迦応身、霊山にして二乗の為に説き給へり。或は釈迦は大日の化身也とも云へり。成道の時は、大日の印可を蒙りて、鞳字の観を教へられ、後夜に仏になる也。大日如来だにもましまさずば、争でか釈迦仏母仏に成り給ふべき。此等の道理を以て案ずるに、法華より真言勝れたる事は、云ふに及ばず也。
答て云く 依法不依人の故に、いかやうにも経説のやうに依るべき也。大日経は釈迦の大日となて説き給へる経也。故に金光明最勝王経の第一には中央釈迦牟尼と云へり。又、金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云ふべし。大日の説とも云ふべし。又、鐐盧遮那と云ふは天竺の語、大日と云ふは此土の語也。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云ふ時は大日は釈迦の異名也。加之、旧訳の経に盧舎那と云ふをば、新訳の経には毘盧遮那と云ふ。然る間、新訳の経の毘盧遮那法身と云ふは、九や金剛頂経の経の毘遮那多受用身也。故に大日法身と云ふは法華経の自受用報身にも及ばず。況んや法華経の法身如来にはまして及ぶべからず。法華経の自受用法身とは真言には分絶えて知らず也。法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるゝ也。随て華厳経の新訳の仏とは意得べきや。-
次に大日は只是れ釈迦の異名也。なにしに別の仏とは意得べきや。
次の法身の説法と云ふ事、何れの経の説ぞや。弘法大師の二教論には楞伽経に依て法身の説法を立て給へり。其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、未顕真実の権教也。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。此の上に法は定めて説かず、報はに義に通ずるの二身の有るをば一向知らず也。故に大日法身の説法と云ふは定めて法華の他受用身に当る也。
次に大日無始無終と云ふ事、既に_我昔坐道場 降伏於四魔〔我昔道場に坐して、四魔を降伏す〕とも宣べ、又、降伏四魔解脱六趣満足一切智智之明〔四魔を降伏し六種を解脱し、一切智智の明を満足す〕等云云。此れ等の文は大日は始めて四魔を降伏して、始めて仏に成るとこそ見えたれ。全く無始の仏とは見えず。又、仏に成りて何程を経ると説かざる事は権教の故也。実経にこそ五百塵点等をも説きたれ。
次に法界宮とは、色究竟天歟。又、何の処ぞや。色究竟天、或は他化自在天は法華天台宗には別教の仏の説処と云ひていみじからぬ事に申す也。又、為菩薩説〔菩薩の為に説く〕とも高名もなし。例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚ほ法華の方便とこそ云はるれ。只、仏出世の本意は仏に成り難き二乗の、仏に為るを一大事とし給へり。
されば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ、二乗作仏を説かざるを顕教と云へり。此の趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨無きが故に還りて顕教と云ひ、法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云ふべき也。随て諸仏秘密之蔵と説けば子細無し。世間の人、密教勝ると云ふはいかやうに意得たる耶。但し若し顕教に於て修行する者は久しく三大無数劫を経ると云ふ故に、是れ、三蔵四阿含経を指して顕教と云ひて、権大乗までは云はず。況んや法華実大乗までは都て云はず也。
次に釈迦は大日の化身、鞳字を教へられてこそ仏には成りたれと云ふ事。此れは偏に六波羅蜜経の説也。彼の経一部十巻は此れ釈迦の説也。大日の説には非ず。是れ未顕真実の権教也。随て成道の相も三蔵教の教主の相也。六年苦行の後の儀式なるをや。彼の経説の五味を天台は盗み取りて己が宗に立つると云ふ無実を云ひ付けらるゝ弘法大師の大なる僻事也。所以に天台は涅槃経に依て立て給へり。全く六波羅蜜経には依らず。況んや天台死去の後、百九十年あて貞元四年に渡れる経也。何として天台は見給ふべき。不実の過、弘法大師にあり。およそ彼の経説は未顕真実也。之を以て法華経を下さん事甚だ荒量也。
猶ほ難じて云く 如何に云ふとも印・真言・三摩耶尊形を説く事は大日経程法華経には之無し。事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり。其の上、真言の三部経は釈迦一代五時の摂属に非ず。されば弘法大師の宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として法華は無明の辺域、戯論の法と釈し給へり。爰を以て法華劣り真言勝ると申す也。
答ふ 凡そ印相・尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず。設ひ之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし。所以に阿含経等にも印相有るが故に、必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず。説くまじければ是れを説かぬにこそ有れ。法華は只三世十方の仏の本意を説きて、其の形がとある、かうあるとは云ふべからず。例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣るとは云ふべからざるが如し。
次に事理倶密の事。法華は理秘密、真言は事理倶密なれば勝るゝとは何れの経に説かるや。抑そも法華の理秘密とは、何様の事ぞや。法華の理とは迹門開権顕実の理過。其の理は真言には分絶えて知らざる理也。法華の事とは又、久遠実成の事也。此の事又真言になし。真言に云ふ所の事理は未開会の権教の事理也。何ぞ法華に勝るべき乎。
次に一代五時の摂属に非ずと云ふ事。是れ往古より諍ひ也。唐決には四教有るが故に方等部に摂すと云へり。教時義には、一切智智一味の開会を説くが故に、法華の摂と云へり。二義の中に方等の摂と云ふは吉義也。所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云ふ事、甚だいはれなし。彼は法開会の文にして、全く人開会なし。争でか法華の摂と云はるべき。法開会の文は、方等・般若にも盛んに談ずれども、法華に等しき事なし。彼の大日経の始終を見るに、四教の旨具さにあり。尤も方等の摂と云ふべし。所以に開権顕実の旨、有らざれば法華と云ふまじ。一向小乗三蔵の義無ければ阿含部とも云ふべからず。般若畢竟空を説かねば般若部とも云ふべからず。大小四教の旨を説くが故に方等部と云はずんば何れの部とか云はん。又一代五時を離れて外に仏法有りと云ふべからず。若し有らば二仏並出の失あらん。又、其の法を釈迦統領の国土にきたして弘むべからず。
次に弘法大師、釈摩訶衍論を証拠と為して法華を無明の辺域、戯論の法と云ふ事、是れ以ての外の事也。釈摩訶衍論とは、龍樹菩薩の造也。是れは釈迦如来の御弟子也。争でか弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押し下ろして戯論の法等と云ふべき耶。而も論に其の明文無し。随て彼の論の法門は別教の法門也。権教の法門也。是れ円教に及ばず。又実教に非ず。何してか法華を下すべき。其の上、彼の論に幾ばくの経をか引くらん。されども法華経を引く事は都て之無し。権論の故也。地体、弘法大師の華厳より法華を下されたるは遥かに仏意にはくひ違ひたる心地也。用ふべからず、用ふべからず。
日 蓮花押


