日本の仏教史(2)
四条金吾殿御返事(四条第十八書)(告誡書)建治三年 五十六歳作。
御文あらあらうけ給て、長き夜のあけとをき道をかへりたるがごとし。夫仏法と申は勝負を先とし、王法と申は賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我国をば日本と申す。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり。仏法は月の国より始て日の国にとどまるべし。月は西より出で東に向ひ、日は東より西へ行事天然のことはり、磁石と鉄と雷と象華とのごとし。誰か此ことはりをやぶらん。此国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代、地神五代すぎて人王の代となりて、第一神武天皇、乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給て三十二年治世し給しに、第十三年壬申十月十三日辛酉に此国より西に百済と申す国あり。日本国の大王の御知行の国なり。其国の大王聖明王と申せし国王あり。年貢を日本国にまいらせしついでに、金銅の釈迦仏並に一切経、法師、尼等をわたしたりしかば、天皇大に悦て群臣に仰て西蕃の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿弥と申せし人の云「西蕃の諸国みな此を礼す、とよあき(豊秋)やまと(日本)あに独背哉」と申す。物部の大むらじ(連)をこし(尾輿)の中臣のかまこ(鎌子)等奏て曰「我国家天下に君たる人はつねに天地しやそく(社稷)百八十神を、春夏秋冬にさいはい(祭拝)するを事とす。しかるを今更あらためて西蕃神を拝せばをそらくは我国の神いかりをなさん」と云云。爾時天皇わかちがたくして勅宣す。此事只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、佗人用る事なかれ。蘇我の大臣うけ取て大に悦び給て、此釈迦仏を我か居住のをはだ(小墾田)と申ところに入まいらせて安置せり。物部大連不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ、すでに国民尽ぬべかりしかば、物部大連隙を得て此仏を失べきよし申せしかば勅宣なる。早く佗国の仏法を可棄云云。物部大連御使として仏をば取て、炭をもてをこしつち(槌)をもて打くだき、仏殿をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち(笞)をくはへき。其時天に雲なくして大風ふき雨ふり、内裏天火にやけあがて、大王並に物部大連、蘇我臣三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶ぬ、蘇我と王とはからくして蘇生す。而ども仏法を用ることなくして十九年すぎぬ。第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿弥の子は蘇我の馬子と云云。此王の御代に聖徳太子生れ給へり、用明の御子敏達のをい(甥)なり。御年二歳の二月東に向て無名の指を開て、南無物と唱へ給へば御舎利掌にあり。是日本国の釈迦仏を念ずるの始なり。太子八歳なりしに八歳の太子云「西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を尊めば則ち禍を銷し福を蒙る。之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云。大連、物部弓削、宿弥守屋等いかりて云「蘇我は勅宣を背き佗国の神を礼す」等云云。又疫病未息人民すでにたえぬべし。弓削守屋又此を間奏す云云。勅宣に云「蘇我の馬子仏法を興行す、宜く仏法を卻くべし」等云云。此に仏法守屋中臣の臣勝海大連等両臣と与に寺に向て堂塔を切たうし、仏像をやきやぶり寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ(責)。又天皇並に守屋、馬子等疫病す。其言に云「焼がごとしきるがごとし。又瘡をこる、はうそう(疱瘡)といふ。馬子歎て云「尚三宝を仰がんと。勅宣に云く、汝独行へ但し余人を断てよ」等云云。馬子欣悦し精舎を造て三宝を崇めぬ。天皇は終に八月十五日崩御云云。此年は太子は十四なり。第三十二代用明天皇の治二年、欽明の太子聖徳太子の父也。治二年丁未四月に天皇疫病あり、皇勅して云「三宝に帰せんと欲す」云云。蘇我大臣詔に随ふ可しとて遂に法師を引て内裏に入る。豊国の法師是也。物部守屋、大連等大に瞋り横に睨で云「天皇を厭魅す」と終に皇隠れさせ給ふ。五月に物部守屋が一族渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押寄てたたかう、五月、六月、七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ、第四度め(目)に太子願を立て云「釈迦如来の御舎利塔を立て四天王寺を建立せん」と。馬子願て云「百済より所渡の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云。弓削なの(名乗)て云「此は我放つ矢にはあらず、我先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり」と。此矢はるかに飛で太子の鎧に中る。太子なのる、此は我が放つ矢にはあらず四天王の放給ふ矢なりとて、迹見赤梼と申す舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛で守屋が胸に中りぬ。はだのかはかつ(秦川勝)をちあひて頸をとる。此合戦は用明崩御、崇峻未だ位に即き給はざる其中間なり。第三十三崇峻天皇位につき給ふ。太子は四天王寺を建立す、此釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候し教主釈尊を崇重す。今代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに三代の天皇並に物部の一族むなしくなりしなり。又太子教主釈尊の像一体つくらせ給て元興寺に居せしむ、今の橘寺の御本尊これなり。此こそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡?、王透等の十八人を月氏につかはして仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩謄迦、竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳、迎へ取て崇重ありしかば漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家、道家の人人数千人此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と、五部の経を本尊と恃怙給ふ。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳、五典、二聖、三王の書を、薪につみこめてやきしかば古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らずあまりのはずかしさに、?善信、費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ。されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙る三代の帝並に二人の臣下釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く後生は悪道に堕ぬ。
今代も又これにかはるべからず。漢土の道士、信、費等日本の守屋等は漢土、日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随奉り行者は皆ほろびぬ。今の代も如此上に挙る所の百済国の仏は教主釈尊なり。名を阿弥陀仏と云て日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はただ一なり。されば今の代の滅せん事又疑なかるべし。是は未申法門也、可秘可秘。又吾一門の人人の中にも信心もうすく、日蓮が申事を背給はば蘇我がごとくなるべし。其故は仏法日本に立し事は蘇我の宿弥と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王、帝釈の如にてこそあらまじなれ、物部と守屋とを失し故に、只一門になりて位もあがり国をも知行し、一門も繁昌せし故に高挙をなして、崇峻天皇を失ひたてまつり王子を多殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇、中臣鎌子が計として教主釈尊を造奉りて、あながちに申せしかば、入鹿の臣並に父等の一族一時に滅ぬ。此をもて御推察あるべし。又我此一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人はかへりて失あるべし。日蓮をうらみさせ給な。少輔房、能登房等を御覧あるべし。かまへて、かまへて此間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給べからず。火はをびただしきやうなれども暫くあればしめ(滅)る。水はのろき (鈍)やうなれども無左右失ひがたし。御辺は腹あしき人なれば火の燃がごとし、一定人にすかされなん。又主のうらうら(遅遅)と言和にすかさせ給ならば、火に水をかけたるやうに御わたりありぬと覚ゆ。きた(鍛)はぬかね (金)はさかんなる火に入ればとく(疾)とけ候。冰をゆ(湯)に入がごとし。剣なんどは大火に入れども暫はとけず。是きたへる故なり。まへにかう申はきたうなるべし。仏法と申は道理なり。道理と申は主に勝物なり。いかにいとを(愛)しはな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををししとをぼすとも死ては他人の物、すでにさかへ(栄)て年久し、すこしも惜む事なかれ。又さきざき申がごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。日蓮は少より今生のいのり(祈)なし、只仏にならんとをもふ計なり。されども殿の御事をばひまなく法華経、釈迦仏、日天に申なり。其故は法華経の命を継ぐ人なればと思ふなり。穴賢、穴賢。あらかるべからず。吾家にあらずんば人に寄合事なかれ。又夜廻の殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつば(眤)せ給べし。又夜の用心の為と申し、かたがた殿の守りとなるべし。吾方の人人をば少少の事をばみ(見)ずきか(聞)ずあるべし。さて又法門なんどを聞ばやと仰せ候はんに、悦んで見え給ふべからず。いかんが候はんずらん。御弟子どもに申てこそ、見候はめとやはやは(和和)とあるべし。いかにもうれしさにいろに顕れなんと覚え聞んと思ふ心だにも付せ給ならば、火をつけてもすがごとく天より雨の下がごとく、万事をすてられんずるなり。又今度いかなる便も出来せば、したため候し陳状を上らるべし。大事の文なればひとさはぎ(一騒)はかならずあるべし。穴賢穴賢。 日蓮花押 四条金吾殿
御文あらあらうけ給て、長き夜のあけとをき道をかへりたるがごとし。夫仏法と申は勝負を先とし、王法と申は賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり。中にも天竺をば月氏という、我国をば日本と申す。一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり。仏法は月の国より始て日の国にとどまるべし。月は西より出で東に向ひ、日は東より西へ行事天然のことはり、磁石と鉄と雷と象華とのごとし。誰か此ことはりをやぶらん。此国に仏法わたりし由来をたづぬれば、天神七代、地神五代すぎて人王の代となりて、第一神武天皇、乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給て三十二年治世し給しに、第十三年壬申十月十三日辛酉に此国より西に百済と申す国あり。日本国の大王の御知行の国なり。其国の大王聖明王と申せし国王あり。年貢を日本国にまいらせしついでに、金銅の釈迦仏並に一切経、法師、尼等をわたしたりしかば、天皇大に悦て群臣に仰て西蕃の仏をあがめ奉るべしやいなや。蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿弥と申せし人の云「西蕃の諸国みな此を礼す、とよあき(豊秋)やまと(日本)あに独背哉」と申す。物部の大むらじ(連)をこし(尾輿)の中臣のかまこ(鎌子)等奏て曰「我国家天下に君たる人はつねに天地しやそく(社稷)百八十神を、春夏秋冬にさいはい(祭拝)するを事とす。しかるを今更あらためて西蕃神を拝せばをそらくは我国の神いかりをなさん」と云云。爾時天皇わかちがたくして勅宣す。此事只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、佗人用る事なかれ。蘇我の大臣うけ取て大に悦び給て、此釈迦仏を我か居住のをはだ(小墾田)と申ところに入まいらせて安置せり。物部大連不思議なりとていきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ、すでに国民尽ぬべかりしかば、物部大連隙を得て此仏を失べきよし申せしかば勅宣なる。早く佗国の仏法を可棄云云。物部大連御使として仏をば取て、炭をもてをこしつち(槌)をもて打くだき、仏殿をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち(笞)をくはへき。其時天に雲なくして大風ふき雨ふり、内裏天火にやけあがて、大王並に物部大連、蘇我臣三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶ぬ、蘇我と王とはからくして蘇生す。而ども仏法を用ることなくして十九年すぎぬ。第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我の宿弥の子は蘇我の馬子と云云。此王の御代に聖徳太子生れ給へり、用明の御子敏達のをい(甥)なり。御年二歳の二月東に向て無名の指を開て、南無物と唱へ給へば御舎利掌にあり。是日本国の釈迦仏を念ずるの始なり。太子八歳なりしに八歳の太子云「西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を尊めば則ち禍を銷し福を蒙る。之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云。大連、物部弓削、宿弥守屋等いかりて云「蘇我は勅宣を背き佗国の神を礼す」等云云。又疫病未息人民すでにたえぬべし。弓削守屋又此を間奏す云云。勅宣に云「蘇我の馬子仏法を興行す、宜く仏法を卻くべし」等云云。此に仏法守屋中臣の臣勝海大連等両臣と与に寺に向て堂塔を切たうし、仏像をやきやぶり寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ(責)。又天皇並に守屋、馬子等疫病す。其言に云「焼がごとしきるがごとし。又瘡をこる、はうそう(疱瘡)といふ。馬子歎て云「尚三宝を仰がんと。勅宣に云く、汝独行へ但し余人を断てよ」等云云。馬子欣悦し精舎を造て三宝を崇めぬ。天皇は終に八月十五日崩御云云。此年は太子は十四なり。第三十二代用明天皇の治二年、欽明の太子聖徳太子の父也。治二年丁未四月に天皇疫病あり、皇勅して云「三宝に帰せんと欲す」云云。蘇我大臣詔に随ふ可しとて遂に法師を引て内裏に入る。豊国の法師是也。物部守屋、大連等大に瞋り横に睨で云「天皇を厭魅す」と終に皇隠れさせ給ふ。五月に物部守屋が一族渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押寄てたたかう、五月、六月、七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ、第四度め(目)に太子願を立て云「釈迦如来の御舎利塔を立て四天王寺を建立せん」と。馬子願て云「百済より所渡の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云。弓削なの(名乗)て云「此は我放つ矢にはあらず、我先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり」と。此矢はるかに飛で太子の鎧に中る。太子なのる、此は我が放つ矢にはあらず四天王の放給ふ矢なりとて、迹見赤梼と申す舎人にいさせ給へば、矢はるかに飛で守屋が胸に中りぬ。はだのかはかつ(秦川勝)をちあひて頸をとる。此合戦は用明崩御、崇峻未だ位に即き給はざる其中間なり。第三十三崇峻天皇位につき給ふ。太子は四天王寺を建立す、此釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申す寺を建立して、百済国よりわたりて候し教主釈尊を崇重す。今代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり。又釈迦仏にあだをなせしゆへに三代の天皇並に物部の一族むなしくなりしなり。又太子教主釈尊の像一体つくらせ給て元興寺に居せしむ、今の橘寺の御本尊これなり。此こそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡?、王透等の十八人を月氏につかはして仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩謄迦、竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳、迎へ取て崇重ありしかば漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家、道家の人人数千人此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と、五部の経を本尊と恃怙給ふ。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳、五典、二聖、三王の書を、薪につみこめてやきしかば古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らずあまりのはずかしさに、?善信、費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ。されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙る三代の帝並に二人の臣下釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く後生は悪道に堕ぬ。
今代も又これにかはるべからず。漢土の道士、信、費等日本の守屋等は漢土、日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随奉り行者は皆ほろびぬ。今の代も如此上に挙る所の百済国の仏は教主釈尊なり。名を阿弥陀仏と云て日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はただ一なり。されば今の代の滅せん事又疑なかるべし。是は未申法門也、可秘可秘。又吾一門の人人の中にも信心もうすく、日蓮が申事を背給はば蘇我がごとくなるべし。其故は仏法日本に立し事は蘇我の宿弥と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王、帝釈の如にてこそあらまじなれ、物部と守屋とを失し故に、只一門になりて位もあがり国をも知行し、一門も繁昌せし故に高挙をなして、崇峻天皇を失ひたてまつり王子を多殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇、中臣鎌子が計として教主釈尊を造奉りて、あながちに申せしかば、入鹿の臣並に父等の一族一時に滅ぬ。此をもて御推察あるべし。又我此一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人はかへりて失あるべし。日蓮をうらみさせ給な。少輔房、能登房等を御覧あるべし。かまへて、かまへて此間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給べからず。火はをびただしきやうなれども暫くあればしめ(滅)る。水はのろき (鈍)やうなれども無左右失ひがたし。御辺は腹あしき人なれば火の燃がごとし、一定人にすかされなん。又主のうらうら(遅遅)と言和にすかさせ給ならば、火に水をかけたるやうに御わたりありぬと覚ゆ。きた(鍛)はぬかね (金)はさかんなる火に入ればとく(疾)とけ候。冰をゆ(湯)に入がごとし。剣なんどは大火に入れども暫はとけず。是きたへる故なり。まへにかう申はきたうなるべし。仏法と申は道理なり。道理と申は主に勝物なり。いかにいとを(愛)しはな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををししとをぼすとも死ては他人の物、すでにさかへ(栄)て年久し、すこしも惜む事なかれ。又さきざき申がごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。日蓮は少より今生のいのり(祈)なし、只仏にならんとをもふ計なり。されども殿の御事をばひまなく法華経、釈迦仏、日天に申なり。其故は法華経の命を継ぐ人なればと思ふなり。穴賢、穴賢。あらかるべからず。吾家にあらずんば人に寄合事なかれ。又夜廻の殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつば(眤)せ給べし。又夜の用心の為と申し、かたがた殿の守りとなるべし。吾方の人人をば少少の事をばみ(見)ずきか(聞)ずあるべし。さて又法門なんどを聞ばやと仰せ候はんに、悦んで見え給ふべからず。いかんが候はんずらん。御弟子どもに申てこそ、見候はめとやはやは(和和)とあるべし。いかにもうれしさにいろに顕れなんと覚え聞んと思ふ心だにも付せ給ならば、火をつけてもすがごとく天より雨の下がごとく、万事をすてられんずるなり。又今度いかなる便も出来せば、したため候し陳状を上らるべし。大事の文なればひとさはぎ(一騒)はかならずあるべし。穴賢穴賢。 日蓮花押 四条金吾殿
日本の仏教史
(人王)第三十代は欽明天皇。此の皇は第二十七代の継体の御嫡子也。治三十二年。此の皇の治十三年[壬申]十月十三日[辛酉]、百済国の聖明皇、金銅の釈迦仏を渡し奉る。今日本国の上下万民一同に阿弥陀仏と申す此れ也。其の表文に云く ̄臣聞万法之中仏法最善。世間之道仏法最上。天皇陛下亦応修行。故敬捧仏像・経教・法師附使貢献。宜信行者〔臣聞く、万法の中、仏法最も善し。世間の道、仏法最上なり。天皇陛下亦修行あるべし。故に敬って仏像・経教・法師を捧げて、使いに附して貢献す。宜しく信行あるべきものなり〕[已上]。然りといへども欽明・敏達・用明の三代三十余年は崇め給ふ事なし。其の時の天変地夭は今の代にこそにて候へども、今は亦其の代にはにるべくもなき変夭也。
第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛んにひろまり給いき。此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡て候ひき。此の三論宗は月氏にても漢土にても日本にても大乗の宗の始めなり。故に故に宗の母とも、宗の父とも申す。
人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給ふ。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、唯律宗計りを弘めて、天台法華宗は弘通なし。
人王第五十代に最長と申す聖人あり。法華宗を我と見出して、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗の六宗をせめをとし給ふのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給ふ。所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗也。しかりといへども、法華宗と律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給はず。真言宗をば宗の字をけづり、たゞ七大寺等の諸僧に潅頂を許し給ふ。然れども世間の人々はいかなる故という事をしらず。当時の人々の云く 此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくはしく知し食し給はざりけるか、とすい(推)し申す也。
同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて、真言宗をならう。しかりといへどもいまだ此の御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年[癸卯]正月十九日に、真言宗の住処東寺を給ひて護国教王院とがうす。伝教大師御入滅の一年の後也。
人王五十四代仁明天皇の御宇に円仁和尚漢土にわたりて、重ねて法華・真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に仁寿と斎衝とに、金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏、已上十四巻を造りて、大日経の義釈に竝べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に・持院を建立し、真言宗を弘通する事此の時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくいいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給ひけり。大衆も又かくのごとし。
同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐。漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝。此人は本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、又東寺の真言をも習ひ給へり。其の後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の法華・真言の元祖智証大師此れ也。
已上四大師也。総じて日本国には真言宗に又八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。
人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は大政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年[乙巳]三月二十四日八嶋にして海中に崩じ給ひき。此の王は源の頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給ふ。人王八十二代は隠岐の法皇と申す。高倉の第三王子。文治元年[丙午]御即位。八十三代には阿波の院。隠岐の法皇の長子。建仁二年に位に継ぎ給ふ。八十四代には佐渡の院。隠岐の法皇の第二の王子。承久三年[辛巳]二月二十六日に王位につき給ふ。同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。此の二三四の三王は父子也。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へる也。
『神国王御書』
先ず山門はじまりし事は此の国に仏法渡って二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり。当時の京都は昔聖徳太子王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いし間都をたて給わず。又上宮太子の記に云く ̄我滅後二百余年仏法日本可弘〔我が滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし〕云云。伝教大師延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の京都をたて給いき。太子の記文たがわざる故なり。
『祈祷鈔』
夫れ人王三十代欽明の御宇、始めて仏法渡りし以来、桓武の御宇に至るまで、二十代二百余年之間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず。爰に延暦年中に一りの聖人有りて此の国に出現せり。所謂伝教大師是れ也。此の人先より弘通する六宗を糺明し、七寺を弟子と為して、終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。
『四信五品抄』
人王四十五代聖武天皇の御宇に、唐の揚州龍興寺の鑒真和尚と申せし人、漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給ひて有りしが、円機未熟とやおぼしけん、此の法門をば己心に収めて口にも出だし給はず。大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり。此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり。大乗出現の後には肩を竝べて行せよとにはあらず。例せば儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は仏の御使として漢土に遣はされて、内典の初門に礼楽の文を諸人に教へたり。
<中略>
人王第五十代桓武天皇の御宇に伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習ひ究め給ふのみならず、達磨宗の淵底を探り究竟するのみならず、本朝未弘の天台法華宗・真言宗の二門を尋ね顕して浅深勝劣を心中に存じ給へり。去る延暦二十一年正月十九日に桓武皇帝高雄寺に行幸ならせ給ひ、南都七大寺の長者善議・勤操等の十四人最澄法師等召し合わせ給ひて、六宗と法華宗との勝劣浅深得道の有無を糾明せられしに、先は六宗の碩学各々宗々ごとに我が宗は一代超過、一代超過の由立て申されしかども、澄公の一言に万事破れ畢んぬ。其の後皇帝重ねて口宣す。和気の弘世を御使として諌責せられしかば、七大寺六宗の碩学一同に謝表を奉り畢んぬ。
『下山御消息』
又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎよ、平城天王に見参し、御用ひありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は嵯峨の天王弘仁十三年六月四日御入滅。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師となり、真言宗を立て東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始る。
『報恩抄』
日本我が朝には華厳等の六宗、天台・真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取て自宗の極とする事あらわれおわんぬ。伝教大師宗々の人師の異執をすてて専ら経文を前として責めさせ給いしかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人竝びに弘法大師等せめおとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失をまぬかれたる事もあらわれぬ。
『開目抄』
像法之末八百年に相当りて、伝教大師、和国に託生して華厳宗等の六宗之邪義を糺明するのみに非ず、加之、南岳・天台も未だ弘めたまはざる円頓の戒壇を叡山に建立す。日本一州之学者、一人も残らず大師の門弟と為る。但天台と真言との勝劣に於ては誑惑と知りて而も分明ならず。所詮、末法に贈りたまふか。
『曾谷入道殿許御書』
第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛んにひろまり給いき。此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡て候ひき。此の三論宗は月氏にても漢土にても日本にても大乗の宗の始めなり。故に故に宗の母とも、宗の父とも申す。
人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給ふ。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、唯律宗計りを弘めて、天台法華宗は弘通なし。
人王第五十代に最長と申す聖人あり。法華宗を我と見出して、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗の六宗をせめをとし給ふのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給ふ。所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗也。しかりといへども、法華宗と律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給はず。真言宗をば宗の字をけづり、たゞ七大寺等の諸僧に潅頂を許し給ふ。然れども世間の人々はいかなる故という事をしらず。当時の人々の云く 此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくはしく知し食し給はざりけるか、とすい(推)し申す也。
同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて、真言宗をならう。しかりといへどもいまだ此の御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年[癸卯]正月十九日に、真言宗の住処東寺を給ひて護国教王院とがうす。伝教大師御入滅の一年の後也。
人王五十四代仁明天皇の御宇に円仁和尚漢土にわたりて、重ねて法華・真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に仁寿と斎衝とに、金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏、已上十四巻を造りて、大日経の義釈に竝べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に・持院を建立し、真言宗を弘通する事此の時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくいいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給ひけり。大衆も又かくのごとし。
同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐。漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝。此人は本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、又東寺の真言をも習ひ給へり。其の後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の法華・真言の元祖智証大師此れ也。
已上四大師也。総じて日本国には真言宗に又八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。
人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は大政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年[乙巳]三月二十四日八嶋にして海中に崩じ給ひき。此の王は源の頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給ふ。人王八十二代は隠岐の法皇と申す。高倉の第三王子。文治元年[丙午]御即位。八十三代には阿波の院。隠岐の法皇の長子。建仁二年に位に継ぎ給ふ。八十四代には佐渡の院。隠岐の法皇の第二の王子。承久三年[辛巳]二月二十六日に王位につき給ふ。同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。此の二三四の三王は父子也。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へる也。
『神国王御書』
先ず山門はじまりし事は此の国に仏法渡って二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり。当時の京都は昔聖徳太子王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いし間都をたて給わず。又上宮太子の記に云く ̄我滅後二百余年仏法日本可弘〔我が滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし〕云云。伝教大師延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の京都をたて給いき。太子の記文たがわざる故なり。
『祈祷鈔』
夫れ人王三十代欽明の御宇、始めて仏法渡りし以来、桓武の御宇に至るまで、二十代二百余年之間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず。爰に延暦年中に一りの聖人有りて此の国に出現せり。所謂伝教大師是れ也。此の人先より弘通する六宗を糺明し、七寺を弟子と為して、終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。
『四信五品抄』
人王四十五代聖武天皇の御宇に、唐の揚州龍興寺の鑒真和尚と申せし人、漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給ひて有りしが、円機未熟とやおぼしけん、此の法門をば己心に収めて口にも出だし給はず。大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり。此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり。大乗出現の後には肩を竝べて行せよとにはあらず。例せば儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は仏の御使として漢土に遣はされて、内典の初門に礼楽の文を諸人に教へたり。
<中略>
人王第五十代桓武天皇の御宇に伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習ひ究め給ふのみならず、達磨宗の淵底を探り究竟するのみならず、本朝未弘の天台法華宗・真言宗の二門を尋ね顕して浅深勝劣を心中に存じ給へり。去る延暦二十一年正月十九日に桓武皇帝高雄寺に行幸ならせ給ひ、南都七大寺の長者善議・勤操等の十四人最澄法師等召し合わせ給ひて、六宗と法華宗との勝劣浅深得道の有無を糾明せられしに、先は六宗の碩学各々宗々ごとに我が宗は一代超過、一代超過の由立て申されしかども、澄公の一言に万事破れ畢んぬ。其の後皇帝重ねて口宣す。和気の弘世を御使として諌責せられしかば、七大寺六宗の碩学一同に謝表を奉り畢んぬ。
『下山御消息』
又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎよ、平城天王に見参し、御用ひありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は嵯峨の天王弘仁十三年六月四日御入滅。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師となり、真言宗を立て東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始る。
『報恩抄』
日本我が朝には華厳等の六宗、天台・真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取て自宗の極とする事あらわれおわんぬ。伝教大師宗々の人師の異執をすてて専ら経文を前として責めさせ給いしかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人竝びに弘法大師等せめおとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失をまぬかれたる事もあらわれぬ。
『開目抄』
像法之末八百年に相当りて、伝教大師、和国に託生して華厳宗等の六宗之邪義を糺明するのみに非ず、加之、南岳・天台も未だ弘めたまはざる円頓の戒壇を叡山に建立す。日本一州之学者、一人も残らず大師の門弟と為る。但天台と真言との勝劣に於ては誑惑と知りて而も分明ならず。所詮、末法に贈りたまふか。
『曾谷入道殿許御書』
震旦(中国)の仏教史
仏法未だ漢土に渡らざる前は黄帝等五常を以て国を治む。其の五常は仏法渡りて後、之を見れば即ち五戒なり。老子・孔子等も亦仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめん為に遣はす所の三聖なり。夏桀・殷紂・周幽等五常を破って国を亡ぼす。即ち五戒を破るに当るなり。
<中略>
仏、漢土に仏法を弘めん為に先に三菩薩を漢土に遣はし、諸人に五常を教へて仏教の初門と為す。此れ等の文を以て之を勘ふるに仏法已前の五常は仏教之内の五戒なることを知る。
『災難興起由来』
漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもて、民の心をとゝのへてよ(世)をば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるき事はかしこくなりしかば、外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし。外経をもつて世をさまらざりしゆへに、やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば、世をだやかなりき。此れはひとへに仏教のかしこきによて、人民の心をくはしくあかせるなり。
『智慧亡国御書』
漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は、三皇、五帝、三王、乃至大公望、周公旦、老子、孔子つくらせ給て候し文を、或は経となづけ或は典等となづく。此文を披いて人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがひ(従)天も納受をたれ給ふ。此にたがい(違)し子をば不孝の者と申し、臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏経わたりし時、或一類は用ふべからずと申し、或一類は用ふべしと申せし程に、あらそひ出来て召合せたりしかば外典の者負て仏弟子勝にき。其後は外典の者と仏弟子を合せしかば、氷の日にとくるが如く火の水に滅するが如く、まくるのみならずなにともなき者となりし也。又仏経漸くわたり来し程に、仏経の中に又勝劣、浅深候けり。所謂小乗経、大乗経、顕経、密経、権経、実経也。
『乙御前御消息(与日妙尼書)』
漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡?、王透等の十八人を月氏につかはして仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩謄迦、竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳、迎へ取て崇重ありしかば漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家、道家の人人数千人此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と、五部の経を本尊と恃怙給ふ。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳、五典、二聖、三王の書を、薪につみこめてやきしかば古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らずあまりのはずかしさに、?善信、費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ。されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙る三代の帝並に二人の臣下釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く後生は悪道に堕ぬ。
『四条金吾殿御返事』
天竺より仏法漢土へわたりし時、小大の経々は金言に私言まじはれり。宗々は又天竺・漢土の論師人師、或は小を大とあらそい、或は大を小という。或は小に大をかきまじへ、或は大に小を入れ、或は先の経を後とあらそい、或は後を先とし、或は先を後につけ、或は顕教を密教といひ、密教を顕教という。譬へば乳に水を入れ、薬に毒を加ふるがごとし。
<中略>
然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人也。其の中に羅什三蔵一人を除きて、前後の一百八十六人は純乳に水を加へ、薬に毒を入れたる人々也。
『諌曉八幡抄』
さて後秦の羅什三蔵は、我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり。我が約する所の経、若し誤りなくば、我死して後、身は不浄なれば焼かると云ふとも、舌計りは焼けざらんと常に説法し給ひしに、焼き奉る時、御身は皆骨となるといへども、御舌計りは青蓮華の上に光明を放ちて、日輪を映奪し給ひき。有り難き事也。さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給ひしか。
『聖愚問答鈔』
仏の滅後、一千一十五年に当りて、震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝、永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝、開元十八年庚午に至るまで、六百六十四歳之間に一切経渡り畢んぬ。
『教機時国鈔』
月氏の仏法漢土に渡来する之間、南岳・天台等漢土に出現して、粗法華之実義を弘宣したまふ。然而〈されど〉円慧円定に於ては国師たりと雖も円頓之戒場未だ之を建立せず。故に国を挙げて戒師と仰がず。六百年の以後、法相宗西天より来れり。太宗皇帝之を用ゆる故に、天台宗に帰依する之人、漸く薄し。茲に就いて隙を得、則天皇后の御宇に先に破られし華厳亦起きて天台宗に勝れたる之由、之を称す。太宗より第八代、玄宗皇帝の御宇に真言始めて月氏より来れり。所謂、開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経。開元八年には金剛智・不空両三蔵の金剛頂経。此の如く三経を天竺より漢土に持ち来り、天台之釈を見聞して智発して釈を作りて大日経と法華経とを一経と為し、其の上印・真言を加へて密教と号し、之に勝るの由をいひ、結句権教を以て実経を下す。漢土の学者、此の事を知らず。
『曾谷入道殿許御書』
仏法漢土に渡りて五百年の間は名匠国に充満せしかども、光宅の法雲・道場の慧観等には過ぎざりき。此れ等の人人は名を天下に流し、智水を国中にそゝぎしかども、天台智者大師と申せし人、彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば、初めには用ひず。後には信用を加えし時、始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えし也。
『題目弥陀名号勝劣事』
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師智は日月に斉しく、徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候しが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与えり。此の法門は漢土に始まるのみならず、月氏の論師までも明かし給わぬ事也。然れば章安大師の釈に云く ̄止観明静前代未聞〔止観の明静なる前代未だ聞かず〕云云。又云く ̄天竺大論尚非其類〔天竺の大論尚其類に非ず〕等云云。
『兄弟鈔』
漢土に仏法いまだわたらざつし時の儒家・道家はゆうゆうとして嬰兒のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教ようやく流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆえに、或は還俗して家にかえり、或は俗に心をあわせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。
<中略>
後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども、陳隋の智者大師にうちやぶられて、仏法二び群類を救う。
『開目抄』
漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて現身に大師となる。 ̄特秀於群独歩於唐〔群に特秀し、唐に独歩す〕というこれなり。
<中略>
道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。
『報恩抄』
陳隋の大に智・法師と申せし小僧一人侍りき。後には二代の天子の御師、天台智者大師と号し奉る。此の人始めいやしかりし時、但漢土五百余年の三蔵人師を破るのみならず、月氏一千年の論師をも破せしかば、南北の智人等雲の如く起こり、東西の賢哲等星の如く列なりて、雨の如く難を下し、風の如く此の義を破りしかども、終に論師・人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき。
『善無畏三蔵鈔(師恩報酬鈔)』
漢土に仏法渡りて数百年の間、摩騰迦・竺法蘭・羅什三蔵・南岳・天台・妙楽等、或は疏を作り、或は経を釈せしかども、いまだ法華経の題目をば弥陀の名号の如く勧められず。唯自身一人計り唱へ、或は経を講ずる時講師計り唱へる事あり。
『妙密上人御消息』
<中略>
仏、漢土に仏法を弘めん為に先に三菩薩を漢土に遣はし、諸人に五常を教へて仏教の初門と為す。此れ等の文を以て之を勘ふるに仏法已前の五常は仏教之内の五戒なることを知る。
『災難興起由来』
漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもて、民の心をとゝのへてよ(世)をば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるき事はかしこくなりしかば、外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし。外経をもつて世をさまらざりしゆへに、やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば、世をだやかなりき。此れはひとへに仏教のかしこきによて、人民の心をくはしくあかせるなり。
『智慧亡国御書』
漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は、三皇、五帝、三王、乃至大公望、周公旦、老子、孔子つくらせ給て候し文を、或は経となづけ或は典等となづく。此文を披いて人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがひ(従)天も納受をたれ給ふ。此にたがい(違)し子をば不孝の者と申し、臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏経わたりし時、或一類は用ふべからずと申し、或一類は用ふべしと申せし程に、あらそひ出来て召合せたりしかば外典の者負て仏弟子勝にき。其後は外典の者と仏弟子を合せしかば、氷の日にとくるが如く火の水に滅するが如く、まくるのみならずなにともなき者となりし也。又仏経漸くわたり来し程に、仏経の中に又勝劣、浅深候けり。所謂小乗経、大乗経、顕経、密経、権経、実経也。
『乙御前御消息(与日妙尼書)』
漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡?、王透等の十八人を月氏につかはして仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩謄迦、竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳、迎へ取て崇重ありしかば漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家、道家の人人数千人此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と、五部の経を本尊と恃怙給ふ。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳、五典、二聖、三王の書を、薪につみこめてやきしかば古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らずあまりのはずかしさに、?善信、費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ。されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙る三代の帝並に二人の臣下釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く後生は悪道に堕ぬ。
『四条金吾殿御返事』
天竺より仏法漢土へわたりし時、小大の経々は金言に私言まじはれり。宗々は又天竺・漢土の論師人師、或は小を大とあらそい、或は大を小という。或は小に大をかきまじへ、或は大に小を入れ、或は先の経を後とあらそい、或は後を先とし、或は先を後につけ、或は顕教を密教といひ、密教を顕教という。譬へば乳に水を入れ、薬に毒を加ふるがごとし。
<中略>
然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人也。其の中に羅什三蔵一人を除きて、前後の一百八十六人は純乳に水を加へ、薬に毒を入れたる人々也。
『諌曉八幡抄』
さて後秦の羅什三蔵は、我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり。我が約する所の経、若し誤りなくば、我死して後、身は不浄なれば焼かると云ふとも、舌計りは焼けざらんと常に説法し給ひしに、焼き奉る時、御身は皆骨となるといへども、御舌計りは青蓮華の上に光明を放ちて、日輪を映奪し給ひき。有り難き事也。さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給ひしか。
『聖愚問答鈔』
仏の滅後、一千一十五年に当りて、震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝、永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝、開元十八年庚午に至るまで、六百六十四歳之間に一切経渡り畢んぬ。
『教機時国鈔』
月氏の仏法漢土に渡来する之間、南岳・天台等漢土に出現して、粗法華之実義を弘宣したまふ。然而〈されど〉円慧円定に於ては国師たりと雖も円頓之戒場未だ之を建立せず。故に国を挙げて戒師と仰がず。六百年の以後、法相宗西天より来れり。太宗皇帝之を用ゆる故に、天台宗に帰依する之人、漸く薄し。茲に就いて隙を得、則天皇后の御宇に先に破られし華厳亦起きて天台宗に勝れたる之由、之を称す。太宗より第八代、玄宗皇帝の御宇に真言始めて月氏より来れり。所謂、開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経。開元八年には金剛智・不空両三蔵の金剛頂経。此の如く三経を天竺より漢土に持ち来り、天台之釈を見聞して智発して釈を作りて大日経と法華経とを一経と為し、其の上印・真言を加へて密教と号し、之に勝るの由をいひ、結句権教を以て実経を下す。漢土の学者、此の事を知らず。
『曾谷入道殿許御書』
仏法漢土に渡りて五百年の間は名匠国に充満せしかども、光宅の法雲・道場の慧観等には過ぎざりき。此れ等の人人は名を天下に流し、智水を国中にそゝぎしかども、天台智者大師と申せし人、彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば、初めには用ひず。後には信用を加えし時、始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えし也。
『題目弥陀名号勝劣事』
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師智は日月に斉しく、徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候しが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与えり。此の法門は漢土に始まるのみならず、月氏の論師までも明かし給わぬ事也。然れば章安大師の釈に云く ̄止観明静前代未聞〔止観の明静なる前代未だ聞かず〕云云。又云く ̄天竺大論尚非其類〔天竺の大論尚其類に非ず〕等云云。
『兄弟鈔』
漢土に仏法いまだわたらざつし時の儒家・道家はゆうゆうとして嬰兒のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教ようやく流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆえに、或は還俗して家にかえり、或は俗に心をあわせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。
<中略>
後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども、陳隋の智者大師にうちやぶられて、仏法二び群類を救う。
『開目抄』
漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて現身に大師となる。 ̄特秀於群独歩於唐〔群に特秀し、唐に独歩す〕というこれなり。
<中略>
道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。
『報恩抄』
陳隋の大に智・法師と申せし小僧一人侍りき。後には二代の天子の御師、天台智者大師と号し奉る。此の人始めいやしかりし時、但漢土五百余年の三蔵人師を破るのみならず、月氏一千年の論師をも破せしかば、南北の智人等雲の如く起こり、東西の賢哲等星の如く列なりて、雨の如く難を下し、風の如く此の義を破りしかども、終に論師・人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき。
『善無畏三蔵鈔(師恩報酬鈔)』
漢土に仏法渡りて数百年の間、摩騰迦・竺法蘭・羅什三蔵・南岳・天台・妙楽等、或は疏を作り、或は経を釈せしかども、いまだ法華経の題目をば弥陀の名号の如く勧められず。唯自身一人計り唱へ、或は経を講ずる時講師計り唱へる事あり。
『妙密上人御消息』



