爪上の土

無宗教で日蓮聖人の御遺文を研鑽しています。

女人について(4)

千日尼御前御返事 弘安元年(1278.07・28)

 弘安元年太歳戌寅七月六日、佐渡の国より千日尼と申す人、同じ日本国甲州波木井郷の身延山と申す深山へ、同じ夫の阿仏房を使いとして送り給ふ御文に云く 女人の罪障はいかがかと存じ候へば、御法門に法華経は女人の成仏をさきとするぞと候ひしを、万事はたのみまいらせ候て等云云。
 夫れ法華経と申し候御経は誰れ仏の説き給ひて候ぞとをもひ候へば、此の日本国より西、漢土より又西、流沙・葱嶺と申すよりは又はるか西、月氏と申す国に浄飯王と申しける大王の太子、十九の年位をすべらせ給ひて檀どく山と申す山に入り御出家、三十にして仏とならせ給ひ、身は金色と変じ、神は三世をかがみさせ給ふ。すぎにし事、来るべき事、かがみにかけさせ給ひてをはせし仏の、五十余年が間一代一切の経々を説きをかせ給ふ。
 此の一切の経々仏の滅後一千年が間月氏国にやうやくひろまり候しかども、いまだ漢土・日本国等へは来り候はず。仏滅後一千十五年と申せしに漢土へ仏法渡りはじめて候しかども、又いまだ法華経わたり給はず。仏法漢土にわたりて二百余年に及んで、月氏と漢土との中間に亀茲国と申す国あり。彼の国の内に鳩摩羅えん三蔵と申せし人の弟子鳩摩羅什と申せし人、彼の国より月氏に入り、須利耶蘇磨三蔵と申せし人に此の法華経をさづかり給ひき。
 其の授け給ひし時の御語に云く 此の法華経は東北の国に縁ふかしと云云。此の御語を持ちて月氏より東方漢土へわたし給ひ候しなり。漢土には仏法わたりて二百余年、後秦王の御宇に渡りて候ひき。日本国には人王第三十代欽明天皇の御宇、治十三年壬申十月十三日辛酉日、此れより西百済国と申す国より聖明皇、日本国に仏法をわたす。此れは漢土に仏法わたて四百年、仏滅後一千四百余年也。
 其の中にも法華経はましまししかども人王第三十二代用明天皇の太子、聖徳太子と申せし人、漢土へ使いをつかわして法華経をとりよせまいらせて日本国に弘通し給ひき。それよりこのかた七百余年なり。仏滅後はすでに二千二百三十余年になり候上、月氏・漢土・日本、山々・河々・海々遠くへだたり、人々・心々・国々・各々別にして語かわり、しなことなれば、いかでか仏法の御心をば我等凡夫は弁へ候べき。ただ経々の文字を引き合わせてこそ知るべきに、一切経はやうやうに候へども法華経と申す御経は八巻まします。流通に普賢経、序分の無量義経、各一巻已上。此の御経を開き見まいらせ候へば明らかなる鏡をもつて我が面をみるがごとし。日出でて草木の色を弁へるににたり。
 序分の無量義経を見まいらせ候へば、四十余年未顕真実と申す経文あり。法華経の第一の巻方便品の始めに_世尊法久後 要当説真実〔世尊は法久しゅうして後 要ず当に真実を説きたもうべし〕と申す経文あり。第四の巻の宝塔品には妙法華経 〜 皆是真実と申す明文あり。第七の巻には_舌相至梵天〔舌相梵天に至り〕と申す経文赫々たり。其の外は此の経より外のさきのち(前後)ならべる経々をば星に譬へ、江河に譬へ、小王に譬へ、小山に譬へたり。法華経をば月に譬へ、日に譬へ、大海・大山・大王等に譬へ給へり。
 此の語は私の言に有らず。如来の金言也。十方の諸仏の御評定の御言也。一切の菩薩・二乗・梵天・帝釈今の天に懸けて明鏡のごとくまします。日月も見給ひき聞き給ひき。其の日月の御語も此の経にのせられて候。月氏・漢土・日本国のふるき神たちも皆其の座につらなりし神々なり。天照太神・八幡大菩薩・熊野すずか等の日本国の神々もあらそい給ふべからず。此の経文は一切経に勝れたり。地走る者の王たり。師子王の如し。空飛ぶ者の王たり。鷹のごとし。南無阿弥陀仏経等はきじのごとし。兎のごとし鷲につかまれては涙をながし、師子にせめられては腹わたをたつ。念仏者・律僧・禅僧・真言師等又かくのごとし。法華経の行者に値ひぬればいろを失ひ魂をけすなり。
 かゝるいみじき法華経と申す御経はいかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡夫皆仏になり給ふやうをとかれて候へども、いまだ其のしるしなし。設へば始めたる客人が相貌うるわしくして心もいさぎよく、口もきひて候へばいう事疑ひなけれども、さきも見ぬ人なればいまだあらわれたる事なければ、語おみにては信じがたきぞかし。其の時語にまかせて代なる事度々あひ候へば、さては後の事もたのもしなんど申すぞかし。一切信じて信ぜられざりしを第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり。譬へばくろき物を白くなす事漆を雪となし、不浄を小乗になす事、濁水に如意珠を入れたるがごとし。龍女と申せし小蛇を現身に仏になしましましき。此の時こそ一切の男子の仏になる事をば疑ふ者は候はざりしか。されば此の経は女人成仏を手本としてとかれたりと申す。
 されば日本国に法華経の正義を弘通し始めましませし、叡山の根本伝教大師の此の事を釈し給ふには ̄能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏〔能化所化倶に歴劫なし。妙法経力即身成仏〕等。漢土の天台智者大師法華経の正義をよみはじめ給ひしには ̄他経但記男不記女 乃至 今経皆記〔他経は但男に記して女に記せず 乃至 今経は皆記す〕等云云。此れは一代聖教の中には法華経第一、法華経の中には女人成仏第一なりとことわらせ給ふにや。されば日本一切の女人は法華経より外の一切経には女人成仏せずと嫌ふとも、法華経にだにも女人成仏ゆるされなばなにかくるしかるべき
 しかるに日蓮はうけがたくして人身をうけ、値ひがたくして仏法に値ひ奉る。一切の仏法の中に法華経に値ひまいらせて候。其の恩徳ををもへば父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩なり。父母の恩の中に慈父をば天に譬へ、悲母を大地に譬へたり。いづれもわけがたし。其の中悲母の大恩ことにほうじがたし。此れを報ぜんとをもうに外典の三墳・五典・孝経等によて報ぜんとをもへば、現在をやしないて後生をたすけがたし。身をやしない魂をたすけず。内典の仏法に入て五千七千余巻の小乗・大乗は、女人成仏をかたければ悲母の恩報じがたし。小乗は女人成仏一向に許されず。大乗経は或は往生を許したるやうなれども仏の仮言にて実事なし。
 但法華経計りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へと見候ひしかば、悲母の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す。其れに日本国の一切の女人は漢土の善導、日本の慧心・永観・法然等にすかされて、詮とすべきに南無妙法蓮華経をば一国の女人一人も唱ふることなし。但南無阿弥陀仏と一日に一返十返百千万億反乃至三万十万反、一生が間昼夜十二時に又他事なし。道心堅固なる女人も又悪人なる女人も弥陀念仏を本とせり。わづかに法華経をこととするやうなる女人も月まつまでのてすさび、をもわしき男のひまに心ならず心ざしなき男にあうがごとし。
 されば日本国の一切の女人法華経の御心に叶ふは一人もなし。我が悲母に詮とすべき法華経をば唱へずして弥陀に心をかけば、法華経は本ならねばたすけ給ふべからず。弥陀念仏は女人たすくる法にあらず。必ず地獄に堕ち給ふべし。いかんがせんとなげきし程に我が悲母をたすけんために、弥陀念仏は無間地獄の業なり。五逆にはあらざれども五逆にすぎたり。父母を殺す人は其の肉親をばやぶれども、父母を後生に無間地獄に入れず。今日本国の女人は必ず法華経にて仏になるべきを、たぼらかして一向に南無阿弥陀仏になしぬ。悪ならざればすかされぬ。仏になる種ならざれば仏にはならず。弥陀念仏の小善をもつて法華経の大善を失ふ。小善の念仏は大悪の五逆罪にすぎたり。譬へば承平の将門は関東八箇国をうたへ(打平)、天喜の貞任は奥州をうちとどめし。民を王へ通ぜざりしかば朝敵となりてついにほろぼされぬ。此れ等は五逆にすぎたる謀反なり。今日本国の仏法も又かくのごとし。色かわれる謀反なり。
 法華経は大王、大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗・禅宗・律僧等は彼々の小経によて法華経の大怨敵となりぬ。而るを、日本の一切の女人等我が心のをろかなるをば知らずして、我をたすくる日蓮をかたきとをもひ、大怨敵たる念仏者・禅・律・真言師等を善知識とあやまてり。たすけんとする日蓮かへりて大怨敵とをもわるゝゆえに、女人こぞりて国主に讒言して伊豆の国へながせし上、又佐渡の国へながされぬ。
 こゝに日蓮願て云く 日蓮は全く・りなし。設ひ僻事なりとも日本国の一切の女人を扶けんと願せる志はすてがたかるべし。何に況んや法華経のまゝに申す。而るを一切の女人等信ぜずばさてこそ有るべきに、かへりて日蓮をうたする、日蓮が僻事か。釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・二乗・梵釈四天等いかに計らひ給ふぞ。日蓮僻事ならば其の義を示し給へ。ことには日月天は眼前の境界なり。又仏前にしてきかせ給へる上、法華経の行者をあだまんものをば頭破七分等と誓はせ給ひて候へばいかんが候べきと、日蓮強盛にせめまいらせ候ゆへに天此の国を罰す。ゆへに此の疫病出現せり。他国より此の国を天をほせつけて責めらるべきに、両方の人あまた死すべきに、天の御計らひとしてまづ民を滅して人の手足を切るがごとくして、大事の合戦なくして、此の国の王臣等をせめかたぶけて、法華経の怨敵を滅して正法を弘通せんとなり。
 而るに日蓮佐渡の国へながされたりしかば彼の国の守護等は国主の御計らひに随ひて日蓮をあだむ。万民はその命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此れへわたらぬやう計ると申しつかわし、極楽寺の良観等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して、弟子に持たせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計らひはさてをきぬ、地頭々々等 念仏者々々々等 日蓮が庵室に昼夜に立ちそいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生まれかわりて有るか。漢土に沛公と申せし人、王の相有りとて秦の始皇の勅宣を下して云く 沛公打ちてまいらせん者には不次の賞を行ふべし。沛公は里の中には隠れがたくして山に入りて七日二七日なんど有りしなり。其の時命すでにをわりぬべかりしに、沛公の妻女呂公と申せし人こそ山中を尋ねて時時〈よりより〉命をたすけしが、彼は妻なればなさけすてがたし。此れは後世ををぼせずばなにしにかかくはをはすべき。又其の故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万億供養の女人なり。
 其の上、人は見る眼の前には心ざし有りとも、さしはなれぬれば、心はわすれずともさてこそ候に、去る文永十一年より今年弘安元年まではすでに五ヶ年が間、此の山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし。釈迦如来は我が薩・王子たりし時うへたる虎に身をかい(飼)し功徳、尸毘王とありし時鳩のために身をかへし功徳をば、我が末の代かくのごとく法華経を信ぜん人にゆづらむとこそ、多宝・十方の仏の御前にては申させ給ひしか。
 其の上御消息に云く 尼が父の十三年は来る八月十一日。又云く ぜに一貫もん等云云。あまりの御心ざしの切に候へば、ありえて御はしますに随ひて法華経十巻ををくりまいらせ候。日蓮がこいしくをはせん時は学乗房によませて御ちやうもんあるべし。此の御経をしるしとして後生には御たづねあるべし。
 抑そも去年今年のありさまはいかにならせ給ひぬらむと、をぼつかなさに法華経にねんごろに申し候つれども、いまだいぶかし(不審)く候つるに、七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにとまづといて候つれば、いまだやま(病)ず、こう入道殿は同道にて候つるが、わせ(早稲)はすでにちかづきぬ、こ(子)わなし、いかんがせんとてかへられ候つるとかたり候ひし時こそ、盲目の者の眼のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有るをゆめにて悦ぶがごとし。あわれあわれふしぎなる事かな。
 此れもかまくらも此の方の者は此の病にて死ぬる人はすくなく候。同じ船にて候へばいづれもたすかるべしともをぼへず候つるに、ふねやぶれてたすけぶねに値へるか。又龍神のたすけにて事なく岸へつけるかとこそ不思議がり候へ。さわ(谷)の入道の事なげくより尼ごぜんへ申しつたへさせ給へ。ただし入道の事は申し切り候ひしかばをもひ合わせ給ふらむ。いかに念仏堂ありとも阿弥陀仏は法華経のかたきをばたすけ給ふべからず。かへりて阿弥陀仏の御かたきなり。後生悪道に堕ちてくいられ候らむ事あさまし。ただし入道の堂のらう(廊)にていのちをたびたびたすけられたりし事こそ、いかにすべしともをぼへ候はね。学乗房をもつてはか(墓)につねつね法華経をよませ給へとかたらせ給へ。それも叶ふべしとはをぼえず。さても尼のいかにたよりなからむとなげくと申しつたへさせ給ひ候へ。又々申すべし。
七月二十八日 日 蓮 花押
佐渡国府阿仏房尼御前

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女人について(3)

女人往生鈔 文永二年

 第七の巻に後五百歳二千余年の女人の往生を明かす事を云はば、釈迦如来は十九にして浄飯王宮を出で給ひて、三十の御年成仏し、八十にして御入滅ならせ給ひき。三十と八十との中間を数ふれば年紀五十年也。其の間、一切経を説き給ひき。何れも皆、衆生得度の御ため無虚妄の説、一字一点もおろかなるべからず。又、凡夫の身として是れを疑ふべきにあらず。
 但し、仏説より事起こりて、小乗・大乗、権大乗・実大乗、顕教・密教と申す名目、新たに出来せり。一切衆生には皆成仏すべき種備はれり。
 然りと雖も、小乗経には此の義を説き顕さず。されば仏、我ととかせ給ふ経なれども、諸大乗経には多く小乗経を嫌へり。又、諸大乗経にも法華以前の四十余年の諸大乗経には、一切衆生に多分仏性の義をば許せども、又、一類の衆生には無仏性の義を説き給へり。一切衆生多分仏性の義は巧みなれども、一流医務仏性の義がつたなき故に、多分仏性の巧みなる言も、又、拙き言と成りぬべし。
 されば涅槃経に云く_雖信衆生是仏性有 不必一切皆悉有之。是故名為信不具足〔衆生にこの仏性ありと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉くこれあらず。是の故に名づけて信不具足となす〕等云云。此の文の心は、一切衆生に多分仏性ありと説けども、一類に無しと説かば、所化の衆生は闡提の人と成るべしと云ふ文也。四十余年の衆生は三乗・五乗、倶に闡提の人と申す文也。
 されば仏、無量義経に四十余年の諸経を結して云く_四十余年未顕真実文。されば智者は且く置く、愚者に於ては且く四十余年の御経をば仰ぎて信をなして置くべし。法華経こそ正直捨方便 但説無上道〔正直に方便を捨てて 但無上道を説く〕、妙法華経 皆是真実と釈迦・多宝の二仏、定めさせ給ふ上、諸仏も座に列なり給ひて舌を出させ給ひぬ。一字一文、一句一偈也とも信心を堅固に発して疑ひを成すべからず
 其の上、疑ひを成すならば、生疑不信者即当堕悪道〔疑いを生じて信ぜざらん者ば即ち当に悪道に堕すべし〕。若人不信 乃至 其人命終 入阿鼻獄〔若し人信ぜずして 乃至 其の人命終して 阿鼻獄に入らん〕と、無虚妄の御舌をもて定めさせ給ひぬれば、疑ひをなして悪道におちては何の詮か有るべきと覚ゆ。
 されば二十八品何れも疑ひなき其の中にも、薬王品の後五百歳の文と勧発品の後五百歳の文とこそ、殊にめづらしけれ。勧発品には此の文三処にあり。一処には後五百歳に法華経の南閻浮提に可流布由〔流布すべき由〕を説かれて候。一処には後五百歳の女人の法華経を持ちて、大通智勝仏の第九の王子、阿弥陀如来の浄土、久遠実成の釈迦如来の分身の阿弥陀の本門同居の浄土に往生すべき様を説かれたり。
 抑そも仏には偏頗御坐すまじき事とこそ思ひ侍るに、後五百歳の男女ならば男女にてこそ御坐すべきに、余処に後五百歳の男女、法華経を持ちて往生成仏すべき由の委細なるに、重ねて後五百歳の女人の事を説かせ給へば、女人の御為にはいみじく聞こゆれども、断師の疑ひは尚ほある歟と覚える故に、仏には偏頗のおわするかとたのもしくなき辺もあり。旁、疑はしき事也。
 然りと雖も力及ばず。後五百歳二千余年已後の女人は法華経を行じて、阿弥陀仏の国に往生すべしとこそ御覧じ侍りけめ。
 仏は悉達太子として御坐ししが十九の御出家也。三十の御年に仏に成らせ給ひしたりしかば、迦葉等の大徳通力の人人千余人付けまいらせたりしかども、猶ほ五天竺の外道、怨み奉りてあやうかりしかば、浄飯大王おほせありしやうは、悉達太子をば位を譲り奉りて転輪聖王と仰ぎ奉らんと思し召ししかども、其の甲斐もなく出家して仏となり給ひぬ。今は又、人天一切衆生の師と成らせ給ひぬれば、我一人の財にあらず。一切衆生の眼目也。
 而るを外道に云ひ甲斐なくあやまたせ奉る程ならば侮るとも甲斐なけん。されば我を我と思はん一門の人人は出家して仏に付き奉れと仰せありしかば、千人の釈子出家して仏に付き奉る。千人の釈子一一に浄飯王宮にまひり、案内を申して御門を出で給ひしに、九百九十八人は事ゆへなく御門の橋を打ち渡りき。提婆達多と瞿伽利とは橋にして馬倒れ冠ぬげたりき。相人之を見て、此の二人は仏の聖教の中利益あるべからず。還りて仏教によて重罪を造りて阿鼻地獄に堕つべしと相したりき。
 又、震旦国には周の第十三、平王の御宇に、かみをかうふり、身赤裸なる者出で来れり。相人、相して云く 百年に及ばざるに、世、将に亡びなんと。此れ等の先相に寸分も違はず。遂に瞿伽利、現身に阿鼻地獄に提婆と倶に堕ち、周の世も百年の内に亡びぬ。此れ等は皆仏教の智慧を得たる人は一人もなし。但、二天・三仙・六師と申す外典、三皇五帝等の儒家共也。三惑一分も断ぜず、五眼の四眼既に欠けて但肉眼計り也。一紙の外をもみず、一法も推し当てん事難かるべし。然りと雖も、此れ等の事、一分も違はず。
 而るに仏は五重の煩悩の雲晴れ、五眼の眼曇無く、三千大千世界・無量世界・過去未来現在を掌の中に照知照見せさせ給ふが、後五百歳の南閻浮提の一切の女人、法華経を一字一点も信じ行ぜば、本地同居の安楽世界に往生すべしと、知見し給ひける事の貴く憑敷(たのもしき)事云ふ計りなし。
 女人の御身として漢の李夫人・楊貴妃・王昭君・小野小町・和泉式部と生まれさせ給ひたらんよりも、当世の女人は喜ばしかるべき事也。彼等は寵愛の時にはめづらしかりしかども一期は夢の如し。当時は何れの悪道にか侍らん。彼の時は世はあがり(上代)たりしかども、或は仏法已前の女人、或は仏法の最中なれども後五百歳の已前也。仏の指し給はざる時なれば覚束なし。
 当世の一切の女人は仏の記し置き給ふ後五百歳二千余年に当たりて是れ実の女人往生の時也。例せば冬は氷乏しからず。春は花珍しからず。夏は草多く、秋は菓多し。時節此の如し。当世の女人往生も亦此の如し。貪多く、愚多く、慢多く、嫉多きを嫌はず。何に況んや過無からん女人をや。
 問て云く 内外典の詮を承るに道理には過ぎず。されば天台釈して云く ̄明者貴其理 暗者守其文〔明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る〕文。釈の心はあきらかなる者は道理をたつとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。さればこそ此の後五百歳若有女人の文は、仏説なれども心未だ顕れず。其の故は正法千年は四衆倶に持戒也。故に女人は五戒を持ち、比丘尼は五百戒を持ちて、破戒無戒の女人は市の中の虎の如し。像法一千年には破戒の女人、比丘尼、是れ多く、持戒の女人は、是れ希也。末法に入りては無戒の女人、是れ多し。されば末法の女人いかに賢しと申すとも、正法・像法の女人には過ぐべからず。又、減劫になれば日日に貪瞋癡増長すべし。貪瞋癡強盛なる女人を法華経の機とすべくは末法万年等の女人をも取るべし。貪瞋癡微薄なる女人をとらば正像の女人をも取るべし。今とりわけて後五百歳二千余年の女人を仏の記させ給ふ事は第一の不審也。
 答て云く 此の事第一の不審也。然りと雖も、試みに一義を顕すべし。夫れ仏と申すは大丈夫の相を具せるを仏と名づく。故に女人には大丈夫の相無し。されば諸小乗経には多分は女人成仏を許さず。少分成仏往生を許せども、又、有名無実也。然りと雖も、法華経は九界の一切衆生、善悪・賢愚・有心無心・有性無性・男子女人、一人も漏れなく成仏往生を許さる。然りと雖も、経文、略を存する故に、二乗作仏、女人・悪人の成仏、久遠実成等をこまやかに説きて、男子・善人・菩薩等の成仏をば委細にあげず。人此れを疑はざる故歟。然るに在世には仏の威徳の故に成仏やすし。仏の滅後には成仏は難く往生は易かるべし。然りと雖も、滅後には二乗少なく善人少なし。悪人のみ多かるべし。悪人よりも女人の生死を離れん事かたし。然りと雖も、正法一千年の女人は像法・末法の女人よりも少なし、なをざりなるべし。諸経の機たる事も有りなん。像法の末、末法の始めよりの女人は殊に法器にあらず。諸経の力及ぶべからず。但、法華経計り助け給ふべし。
 故に次ぎ上の文に十喩を挙ぐるに、川流江河の中には大海第一、一切の山の中には須弥山第一、一切の星の中には月天子第一、衆星と月との中には日輪第一等とのべて千万億の已今当の諸経を挙げて江河・諸山・衆星等に譬へて、法華経をば大海・須弥・日月等に譬へ、此の如く讃め已りて殊に後五百歳の女人に此の経を授け給ひぬるは、五濁に入り、正像二千年過ぎて末法の始めの女人は殊に諂曲なるべき故に、諸経の力及ぶべからず、諸仏の力も又及ぶべからず。但、法華経の力のみ及び給ふべき故に、後五百歳の女人とは説かれたる也。されば当世の女人は法華経を離れては往生協ふべからざる也
 問て云く 双観経に法蔵比丘の四十八願の第三十五に云く ̄設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人 聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身 寿終之後復為女像者不取正覚〔たとひ我仏を得たらむに、十方無量不可思議の諸仏の世界に、それ女人有りて、我が名字を聞きて、歓喜、信楽して菩提心を発し、女身を厭悪せんに、寿終の後、復、女のかたちとならば、正覚を取らじ〕文。
 善導和尚の観念法門に云く ̄乃由弥陀本願力故 女人称仏名号正命終時 即転女身得成男子。弥陀接手菩薩扶身 坐宝華上随仏往生 入仏大会証悟無生〔すなわち弥陀の本願力によるが故に、女人、仏の名号を称へば正しく命終の時、即ち女身を転じて男子と成ることを得。弥陀は、手に接し、菩薩は身を扶け、宝華の上に坐して、仏に随て往生し、仏の大会に入りて無生を証悟せん〕文。
 又云く_一切女人若不因弥陀名願力者 千劫万劫恒河沙等劫 終不可転得女身〔一切の女人、もし弥陀の名願力によらざれば、千劫、万劫、恒河沙等の劫にも、ついに女身を転じ得べからず〕等文。-
 此の経文は弥陀の本願に依て女身は男子と成りて往生すべしと見えたり。又善導和尚の不因弥陀名願力者等の釈は弥陀の本願によらずは女人の往生有るべからずと見えたり。以何。
 答て云く 双観経には女人往生の文は有りといへども、法華経に説かるゝところの川流江河の内、或は衆星の光なり。末代後五百歳の女人、弥陀の願力に依て往生せん事は、大石を小船に載せ、大冑(おほよろひ)を弱兵に着せたらんが如し。

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女人について(2)

女人成仏鈔 文永二年

 提婆品に云く_仏告諸比丘。未来世中。乃至 蓮華化生〔仏諸の比丘に告げたまわく、未来世の中に。乃至 蓮華より化生せん〕。此の提婆品に、二箇の諌暁あり。所謂、達多の弘経は釈尊の成道を明かし、又、文殊の通経は龍女の作仏を説く。
 されば此の品を長安宮に一品切り留めて、二十七品を世に流布する間、秦の代より梁の代に至るまで、七代の間の王は、二十七品の経を講読す。其の後、満法師と云ひし人、此の品、法華経になき由を読み出され候て後、長安城より尋ね出だし、今は二十八品にて弘まらせ給ふ。
 さて此の品に浄心信敬の人のことを云ふに、一には不堕三悪道〔三悪道に堕せず〕、二には_生十方仏前〔十方の仏前に生ぜん〕、三には_所生之処。常聞此経〔所生の処には常に此の経を聞かん〕、四には若生人天中。受勝妙楽〔若し人天の中に生れば勝妙の楽を受け〕、五には若在仏前。蓮華化生〔若し仏前にあらば蓮華より化生せん〕と也。
 然るに一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて、妄想顛倒の里に入りしより已来、身口意の三業になすところ、善根は少なく、悪業は多し。されば経文には_一人一日中八億四千念。念念中所作、皆是三途業〔一人一日の中に八億四千念あり。念念の中に作す所、皆是れ三途の業なり〕等云云。
 我等衆生、三界二十五有のちまたに輪回せし事、鳥の林に移るが如く、死しては生じ、生じては死し、車の場(には)に回るが如く、始め終わりもなく、死し生ずる悪業深重の衆生也。
 爰を以て心地観経に云く_有情輪回生六道 猶如車輪無始終 或為父母為男女 生生世世互有恩〔有情、輪回して六道に生ずること、なほ車輪の始終なきが如く、或は父母となり、男女となり、生生世世、互いに恩あり〕等云云。法華経二の巻に云く_三界無安 猶如火宅 衆苦充満〔三界は安きことなし 猶お火宅の如し 衆苦充満して〕等云云。
 涅槃経二十二に云く_菩薩摩訶薩観諸衆生為色香味触因縁故 従昔無量無数劫以来常受苦悩。一一衆生一劫之中所積身骨 如王舎城毘富羅山。所飲乳汁如四海水。身所出血多四海水。父母兄弟妻子眷属命終涕泣 所出目涙多四海水。尽地草木為四寸籌 以数父母亦不能尽。無量劫已来 或在地獄畜生餓鬼 所受行苦不可称計。亦一切衆生骸骨耶〔菩薩摩訶薩、諸の衆生を観るに、色・香・味・触の因縁のための故に、昔の無量無数劫より已来、常に苦悩を受く。一一の衆生、一劫の中に積む所の身の骨は、王舎城の毘富羅山の如く、飲むところの乳汁は、四海の水の如く、身より出だすところの血は、四海の水より多く、父母・兄弟・妻子・眷属の命終に鏖泣して出だすところの目涙は四大海の水より多し。地の草木を尽くして四寸のかづとりとなして、以て父母を数ふるに、また尽くすこと能わず。無量劫より已来、或は地獄・畜生・餓鬼に在りて受くるところの行苦、称計すべからず。また一切衆生の骸骨をや〕云云
 是の如く、いたづらに命を捨てるところの骸骨は、毘富羅山よりも多し。恩愛あはれもの涙は四大海の水よりも多けれども、仏法の為には一骨をもなげ(投)ず。一句一偈を聴聞して、一滴の涙をもおとさぬゆへに、三界の籠樊(ろうはん)を出でず、二十五有のちまたに流転する衆生にて候也。-
 然る間、如何として三界を離るべきと申すに、仏法修行の功力に依て無明のやみはれて法性真如の覚りを開くべく候。
 さては仏法は何なるをか修行して生死を離るべきぞと申すに、但一乗妙法にて有るべく候。されば慧心僧都、七箇日加茂に参籠して、出離生死は何なる教えにてか候べきと祈請申され候ひしに、明神御託宣に云く 釈迦説教一乗留 諸仏成道在妙法 菩薩六度在蓮華 二乗得道在此経〔釈迦の説教は一乗に留まり、諸仏の成道は妙法に在り、菩薩の六度は蓮華に在り、二乗の得道は此の経に在り〕云云。
 普賢経に云く_此大乗経典。諸仏宝蔵。十方三世。諸仏眼目。出生三世諸如来種〔此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり〕
 此の経より外はすべて成仏の期有るべからず候上、殊更女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず。結句爾前の経にてはをびたゞしく嫌はれたり。
 されば華厳経に云く_女人地獄使。能断仏種子。外面似菩薩。内心如夜叉〔女人は地獄の使いなり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し〕。銀色女経に云く_三世諸仏眼堕落於大地 法界諸女人永無成仏期〔三世諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し〕云云。
 或は又、女人には五障三従の罪深しと申す。其者(そは)内典には五障を明かし、外典には三従を教へたり。其の三従者、小くして父母に従ひ、盛んにしては夫に従ひ、老いては子に従ふ。一期身を心に任せず。
 されば栄啓期が三楽を歌ひし中にも、女人と生まれざるを以て一楽とす。
 天台大師云く ̄他経但記菩薩不記二乗。但記善不記悪。今経皆記〔他経は但菩薩に記して二乗に記せず。但男に記して女に記せず〕とて、全く余経には女人の授記これなしと釈せり。
 其の上、釈迦・多宝の二仏塔中に並坐し給ひし時、文殊、妙法を弘めん為に海中に入り給ひて、仏前に帰り参り給ひしかば、宝浄世界の多宝仏の御弟子智積菩薩は龍女成仏を難じて云く_我見釈迦如来。於無量劫。難行苦行。積功累徳。求菩薩道。未曾止息。観三千大千世界。乃至無有。如芥子許。非是菩薩。捨身命処。為衆生故〔我釈迦如来を見たてまつれば、無量劫に於て難行苦行し功を積み徳を累ねて、菩薩の道を求むること未だ曾て止息したまわず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩にして身命を捨てたもう処に非ることあることなし、衆生の為の故なり〕等云云。
 所謂、智積・文殊、再三問答いたし給ふ間は、八万の菩薩、万二千の声聞等、何れも耳をすまして御聴聞計りにて一口の御助言に及ばず。
 然るに智慧第一の舎利弗、文殊の事をば難ずる事なし。多くの故を以て龍女を難ぜらる。所以に女人は垢穢にして非是法器〔是れ法器に非ず〕と小乗権教の意を以て難ぜられ候ひしかば、文殊が龍女成仏の有無の現証は今仏前にして見え候べしと仰せられ候ひしに、案にたがはず、八歳の龍女蛇身をあらためずして仏前に参詣し、価値三千大千世界と説かれて候如意宝珠を仏に奉りしに、仏悦んで是れを請け取り給ひしかば、此の時、智積菩薩も舎利弗も不審を開き、女人成仏の路をふみわけ候。されば女人成仏の手本是れより起りて候。委細は五の巻の経文、之を読むべく候。
 伝教大師の秀句に云く ̄能化龍女無歴劫行 所化衆生無歴劫行。能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏〔能化の龍女、歴劫の行なく、所化の衆生も歴劫の行なし。能化所化倶に歴劫なし。妙法経力即身成仏〕。天台の疏に云く ̄智積執別教為疑 龍女明円釈疑 身子挟三蔵権難 龍女以一実除疑〔智積は別教に執して疑ひを為し、龍女は円を明かして疑ひを釈し、身子は三蔵の権を挟んで難じ、龍女は一実を以て疑ひを除く〕。海龍王経に云く_龍女作仏 国土号光明国 名号無垢証如来〔龍女、作仏し、国土を光明国と号し、名を無垢証如来と号す〕云云。-
 法華経已前の諸経の如きは、縦ひ人中天上の女人なりといふとも成仏の思ひ絶えたるべし。然るに龍女、畜生道の衆生として、戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不可思議也。是れを始めとして、釈尊の姨母摩訶波闍波提比丘尼等、勧持品にして一切衆生喜見如来と授記を被り、羅ゴ羅の母耶輸陀羅女も眷属の比丘尼と共に具足千万光相如来と成り、鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す。然れば尚ほ殊に女性の御信仰あるべき御経にて候。
 抑そも、此の経の一文一句を読み、一字一点を書く、尚ほ出離生死証大菩提の因也。然れば彼の字に結縁せし者、尚ほ炎魔の廳より帰され、六十四字を書きし人は其の父を天上へ送る。何に況んや阿鼻の依正は極聖の自心に処し、地獄天宮皆是果地如来也〔地獄、天宮、皆是れ果地の如来なり〕。鐐盧身土不逾凡下一念。遮那覚体不出衆生迷妄。妙文増霊山浄土 六万九千露点副紫磨金輝光〔鐐盧の身土は凡下の一念を逾えず。遮那の覚体も衆生の迷妄を出でず。妙文は霊山浄土に増し、六万九千の露点は紫磨金の輝光を副へ〕給ふべし。
 殊に過去聖霊は御存生の時より御信心、他に異なる御事なりしかば、今日依講経功力 仏前受生 登仏果菩提勝因〔今日、講経の功力に依て、仏前に生を受け、仏果菩提の勝因に登り〕給ふべし云云。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

テーマ:仏教 - ジャンル:学問・文化・芸術

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